せっかくだから普段あんまり書かないことも書いておくよ。
つまり、おれの日記じゃなくてこのサイトについて。
おれの日記のページに置いてあるカウンタは現在33万ちょっとで、この数字は客観的におかしい。多過ぎる。なぜ33万もあるのか、最大原因となっていたのは俺ニュースだった。
つまりはそういうことだ。実際のところおれのページのカウンタは「おれのページに来たひとをカウントする」ためだけにあるのではなく「俺ニュースから来たひととそうじゃない経路で来たひとの比率をだいたい把握するため」にも機能していたわけだ。
たぶん似たような理由(ニュースサイトに紹介された影響で開設日とカウンタの正比例的な関係が崩れてわけがわからんようになったとか)で多少高機能なカウンタに切り替えたようなサイト管理者のひとってけっこう居るんじゃないかと思う。何回か俺ニュースに紹介されてアクセス数が跳ね上がったりすると、もうそれだけで数字がガクンと動いてしまって、コンスタントにどれくらいのアクセス数があるのかとかわからなくなる。ていうか、それ以外の日のささやかなアクセス数がニュースサイト紹介効果の生む巨大な砂嵐でかき消されて基準を見失ってしまう。
現在のカウンタに替えて以降のアクセスはだいたい24万くらいだけども、そのうちきちんと記録されてるだけでも 61,622 は俺ニュースからのリンクで、当然1位。2位ははてなアンテナの合計で、これは 8,626。桁がいっこちがいますよ。ていうか直接俺ニュース率25%のサイトだよここは。たぶんここまで高い純度の俺ニュ率を叩き出してしまっているサイトはけっこうレア(アレ)だと思うよ。四人にひとりは俺ニュースから飛んで来ていたわけだ。つまりこのページへアクセスしたことのある25%のひとにとってこのページはたぶん「おれの日記」じゃなくて「俺ニュースのサブコンテンツ」だったのではないかなと。
俺ニュースをソースとした二次三次紹介によるリンクとか含め出したら10万を超えてしまうので、間接俺ニュース率だとだいたい40%強のサイトということになるか。べつにその数字によってこのページのありかたが揺らぐことはないので、構わないけど、とはいえ同時にそれは無視するには当たらない事実のひとつでもある。
あーあともうひとつ俺ニュースにはおもしろい経験をさせてもらった。
以前「doodle」でGoogle検索すると、このページが日本語ページで最高1位、web全体でも最高2位までいっちゃってたんだけど、現在このページはフィルタリングされてるっぽいんですよ。表示されません。俺ニュース及びその波及効果で無駄にページランクが上がっちゃってすごい上位にきちゃって、そのうえで「なんだこのけしからんページは」と、Googleの怖いひとの目に止まってしまったんだろうなと。
いやそもそもを言い出せば現在のページデザインが非常にまずいっていう話なのかもしれないけど、元のマイナーな日記だったらそもそも目に止まらないんじゃないかと思うし。ていうかそろそろデザイン変更しようかなと思ってた矢先だったのでどうしたもんかなっていうか。
ともあれさらば俺ニュース、というか、情報を流通させないボンクラたちの世界へようこそtechle氏というべきか。
またすぐどっかでなにかやりだしちゃうのかもしれないけどまあそんなこたおれの知ったことじゃないしで。
あー、俺ニュース終わるよ。さらば。
終了に寄せて「俺ニュース&てくるさんは、既に個人ではなく、インターネット上の機能というか、ブラウザ上のボタンというか、重要なインターフェースの1つでしたので」っていうコメントがあったけども、おれの場合あれだな俺ニュースは1日2回更新される「お気に入り」みたいなものとして利用していた。つまり、こういう使い方(画像をクリックすると原寸大画像を別ウィンドウで表示)。
実際、「お気に入り」と使い勝手はほとんど変わらんのよね。
OPERAだとドラッグ&ドロップでwebページをサイドバーに登録できるので、一応どんなページもこういうふうに使うことができるけど、俺ニュースはまさにこういうふうに使うためにあるような方式のページだったのでほんとによかった。
「近い将来のwebサービスはサイドバーを占領できるかどうかで決まるだろう」みたいなことは誰かいつ言ったのか覚えてないけどあれもけっこう前の話だったように思うし、なんだか実際世の中はそんなかんじに進んできてるかんじがするし(←それがすべてということでは無論ないけど)、たとえば検索デスクはサイドバーで使うやりかたを実践していておもしろかったし(タブブラウザではまともに反映されないけど)、そういう点でそろそろ「サイドバーに埋め込まれることを想定した個人ニュースページ群」もポコポコ出てきていい頃合じゃないかなあと予測していたんだけどまだ俺ニュースのほかにはあんまし出てきてないかんじがするなあ。
なんか全然似てないけど一応近いかんじがするような、RSSビューワとかニュースグループとかとの関連もありそうななさそうな気もするし、ともかくどこからどういう筋合いで伸びていくかはわからんけども(つまりそうなったときみんなが使ってる便利なツールは現在あるようなブラウザではないのかもしれないけども)たぶん最終的にそういうふうにデザインされたサービスは出るんじゃないかなあとかっていうか、現在すでに詳しいひとたちはそういうふうにwebを使ってるのかもしれないけども、そういうふうなやりかたが下のほう(つまりおれ)まで降りてくるのはそう遠いことじゃないんじゃないかなとか。
つーか企業が進出してくる前にまずオタがひととおりしゃぶりつくしてまずさや不便さを洗い出しておかないと。
中里一「小春日和計画」読了。おもしろかった。
なぜだか読んでて手のひらにやたら汗をかく作品だった。「手に汗にぎる」というのとは、ちょっとちがうかんじだけども。
ソーセージとビール買ってきて宴会。ソーセージはボイルして和がらしをつけてモリモリ食う。おでん風味か。
「にゃんにゃこにゃん」というエロゲーの魔性についてレクチャーを受けたりする。
にゃんにゃこにゃん関連。
お話はのっけから「猫を拾ってきた」ではじまるんだけど、その猫の外見はどう見てもふつうの猫ではなく猫耳幼女であり、一応「しかも大きいほうの」とフォロー(ふつう猫と猫耳幼女猫の差別化)は入るものの猫耳幼女を「猫」と呼称して何ら問題ないという世界設定の異常性について以降言及されることはない。ゲームには主人公以外の「人間」も登場するのだが彼女たちもやはり猫耳幼女のことを猫と認識しているらしい。そして「猫」たち(2匹登場する)は最初にゃんとかにゃーと猫語でしか会話できない(あとのほうになるとちょっとは人間語も喋れるようになるらしい)が、主人公だけはその言語を理解できる(プレイヤは主人公の猫語翻訳独白を介してその猫の言いたいことを理解するという形式)。
声優さんもたいへんだろうが、それより何よりこれは異常だ。くるってる。
つまりこういう想像だ。
都会での忙しい暮らしから精神に異常をきたして田舎に引っ越さざるを得なくなった主人公が療養中に「猫」を拾う。その猫は本当にただの猫で、だからほかの人間にとって彼女たちは猫以外の何ものでもない。だが主人公の目には猫耳幼女として映り、猫の鳴き声の意味するところを自然に解することができると「この主人公だけは思い込んでいる」。このゲームは主人公の主観を通して進行するドラマなので、主人公が最初から狂っていた場合その異常は正常に描写され、不審な点はなにもなく、しかし決定的に狂っていることになる。
さらにお話の後のほうになると「猫が主人公に人間語で喋りかけてくるようになる」という点にも注目したい。
猫語をふつうに理解できるのが主人公だけではなくなるということだ。つまり、プレイヤーにもわかるようになっていく。同化時間が長くなっていくにつれ狂気が伝染していくという表現で、引きずり込み方として伝統的だ。ラヴクラフト的っていうよりはダーレス的な印象だろうか。かつて慣れ親しんだ宇宙的恐怖の文脈だ。
ナチュラルボーンきちがいだなあ、刺激値云々とかで枠組みを作るような方法(=企画的な順番でものを考えるひと=最低限の理性がまだ脳裏にこびりついて取れてないひと)では、なかなかこういう狂気にまでは到達できまい。受け皿は狭いだろうし応用も利かないだろうけども、その狭い範囲においては無敵の強さを誇る。
待てよ、ということはつまりこのゲームにおける最上のプレイヤ像は「最初から猫語台詞を(主人公に翻訳してもらうまでもなく)理解できるプレイヤ」か。そういうプレイヤはすでにこのゲームをプレイしなければならない段階には居ないわけだが、しかし。
おれ自身はあまり共感とかしないけども「乳のでかい女なんか描くと吐き気がする」とかいうような台詞はやたらかっこいいなあと思った。即死を恐れぬロック魂だ。なまなかな人間には言えない。
あー、あれか。俺ニュース終了まであと50時間切ったか。実感が湧いてきた。
なんというか、昔働いてた会社がつぶれるらしいよ程度には感慨のある話だな。俺ニュースが終わるっていうのは。まあべつに関係ないといえばないけどそれなりにスコーンと抜けるかんじはあるっていう。
おれはElectric Sheep「天国から来た男」を最初にプレイしたときに「ここはボンクラらしく1ヶ月すべて寝て暮らす」と決めて実行してしまい(思えば主人公の名前を「凡倉 頁作」と入力してしまった時点でもう間違いははじまっていた)、エンディングで「あー、ふつうに暮らせばよかったなあ」とちょっと思ったりしてしまったことを後悔している。
ここでおれが後悔すべきなのは「そういうプレイを最初にしてしまったこと」か「エンディングでちょっと後悔したこと」か、どちらか一方だった。どちらかひとつ後悔するのは自然だけど両方を後悔するのは主義にも道理に反するので、おれはおれが取るべき態度を選択しなければならなかった。でもまあそもそもここで考える余地を自分に与えてしまっているようではたぶんだめなんだよな、分岐を見た時点ですでにどちらか一方の後悔が自動的に開始されてるくらいのシンプルさを獲得できてないうちは、そもそもそういう状況に陥ってはならないと思う。
ともあれあのゲームは、最初の1回はふつうにあちこち行ってみるべきゲームだった。
2回目以降はふつうにあちこち行くようになって、適当に楽しかったり楽しくなかったりする1ヶ月を繰り返している。
先日マリみてを通読したその余った勢いで中里一「小春日和情報」及び「ギャル理論による『小春日和情報』」を読了。なるほど。よくわかり、感じ入るところもあり、納得するところもあり、そして完全に満足するようなものでももちろんなかった。同人誌ならではの密度であり、不完全さであり、読後の渇望感だ。単純にはなんともいいがたい。もちろんその意味するところは正確に中里氏の手腕による。
はやく「小春日和計画」を読みたい。
あとしばらくほかの作品も読んでみないことにはわからないが、現時点では中里氏の才能は「有限の墨」と表現できるのではないかと思った(少なくとも氏自身は自分を指してそう表明しているように感じられた)、その墨を使って「無限」の二字を描いてみせるのが氏一流の作法というものなのではなかろうか。
それが戦略であるのか戦術であるのかの見極めがまだできない。
自転車の鍵がひとつかかったままぶっこわれたので叩き壊してなんとかはずした。どうにもおれの鍵は死に際におれをてこずらせる傾向にある。なんとなく鍵いっこだと蹴り外されて盗まれそうだと思って自転車の鍵は2個にしていたんだけど、これでいっこになってしまった。こうなったらまあ盗まれてもしょうがないなと覚悟も決まったのであとは盗まれても盗まれるに任せるつもり。というか盗まれるのが早いか完全に壊れるのが早いかみたいな。
おれがふつうのつもりで使っていて壊れるものは壊れるに任せる。自転車を大事に使う文化をおれは持たない。
GB「DT Lords of Genomes」のページを読んでると、どうにもみうらじゅん&伊集院光「D.T.」が思い出されてちょっと笑ってしまう。DTワールドとかDTマスターとか。すごそうだ。
あと最近童貞が静かなブームっていうのはどういう筋合いの話なんだろうか。ネタは確かに段階的多発的にかぶってきてはいるが、大きな流れにはなりそうもないし(というよりそんなブームを全体の数割以上が許容してしまうような状況は退廃が過ぎるというものだ)、ネットの端々をつないで見ている偶然がそういう気分を作ってしまっているだけかな。
不満足な環境しか提供することに成功していないMMORPG(のさらにβテストとか)を遊んでサーバにつながらないことをうれしそうに話すひとたちがやっている遊びというのは、むかしネットが不便で不便でしょうがなかった頃に先駆けてインターネットとかで活動していたひとたちが味わっていたような快楽(みたいなもの)への欲求のあらわれなんだろうか?
世界の仕組みをゲームマスターが統制する以上そこに基本的にはパイオニアは存在しえないけど(そういう意味でのパイオニアをβテスト以外で産んでしまうようならそのゲームのゲームデザインは崩壊している)、それに近いことを味わうことはたぶん可能だし。味も素っ気もないやりとりのうえにコンテンツ的なものをのっけてみる楽しみとか、そういう。
2D or not 2Dで紹介されていたGBA「IRIDION II」がすげえおもしろそうだ(ムービー)。そこはかとないシルフィード臭とビューポイント臭(そういえばこういうのもあったな)と、あと若干のイメージファイト臭が(システム的にはどうだかわからんけど画面的に)。ランキングページ各面のタイトルの直訳日本語が痛々しくもステキ。KENGAMINEとか只者ではない。かなりの日本オタとみた。
開発元のSHIN'EN(ドイツの会社らしい)は、トップページからして日本語で「一番 深い 体験」とくるのでこの時点でこのひとたち絶対いいヤツ認定。GB、GBC、GBAと、ゲームボーイ一本で開発してきた会社?なのか?提携会社が多いので自社タイトル以外での開発実績もけっこうありそうっていうか、開発用のミドルウェアとかいろいろ作ってます的な雰囲気。
前作は「IRIDION 3D」というらしい。スクリーンショット見たかんじギャラクシーフォースだな。IIの斜め見下ろし視点もいいけどちゃんとこっちも既にやっといたうえでのIIなのですみたいなかんじか。
いい!いいじゃないか!なんでこの会社が日本に無いのだ!
GBA「V-RALLY 3」あそび中。このゲームはオートマで十字キーで適当に車の向きを変えながら、Aボタンを押したり離したりするゲームのような気がする。いまのところブレーキやギアのマニュアル操作はほとんど使っていない。後々になるときつくなってきてブレーキくらいは使う必要も出てくるのかもしれないけど…たぶんAボタンだけでうまくなるのが一番いいんじゃないかなという気が…。
感想としては、GBAでこれだけ遊べりゃ満足だ。ちゃんとラリーしてる。「接地してる感」も悪くない。おれがラリーゲーで完全に満足するためにはターマックでの接地感がギュニッと来なければならないけど(その点が初代セガラリーの完全たるゆえんだ)、まあそこまでをGBAに求めはしない。というかそこまでできちゃってたらおれはもう感動のあまりベランダから飛び降りるくらいのことをしなければ収まらないだろう。
ともあれ、いいゲームを買った。
あー忘れるっていうかどんどん忘れていくと思ったので、いまのうちに覚えてることをメモ。細かい妄想関連はあとで追記する。
金曜日。
始発で羽田に行って搭乗手続き。空港いっても誰もマスクとかしてなくて、SARS大丈夫かよと思った。
夜が明けても曇天でやなかんじ。離陸して厚い雲を抜けてようやく太陽を拝んだ。おれは飛行機が好きで苦手で怖いので、合計すると +1-1-1=-1 であり、ちょっとネガティヴな感情を持っているけど、年中晴れてるところに行けるっていう点だけは無条件で気に入っている。
離着陸のあたりではデジカメなどの機械は使えないので、安定飛行で飛んでるうちに適当に何枚か撮る。富士山とか、雲海とか、空とか、あと月も出ていた。
あたりまえだけど38万分の数km近づいた程度ではぜんぜん大きさかわらないな。
搭乗直後に寝て着陸後に起きれば死と向き合う時間が短くて済むなあと思ってたので前夜は徹夜で作業してたんだけど、けっきょく寝れなかったのでマリみてのつづきを読みはじめた。この旅行中に現在手持ちの「子羊たちの休暇」まで読み終える予定だ。
年末年始の旅行で1巻から「いとしき歳月」の前の巻まで読み進めて、今読んでるのは「いとしき歳月」の後編だ。前編1冊読むのに半年あまりをかけてしまった計算になるっていうか、ようするにこういうものは一気に読んでしまわないとあとでじっくり読もうと思ってもなかなか読む気力が起きないということだ。それこそ、旅行にでもまとめて持っていって移動中に読むとかそういうきっかけが必要になる。
福岡空港着。
おれは明太子を食うひとではないっていうかどちらかといえば嫌いだけど、福さ屋の看板はそれなりになつかしい。
入国管理局とかあるけど、ここでも誰もマスクとかつけてなかった。大丈夫かよ。
あと、自分の死と向き合うのは一週間に1回くらいで十分以上だと思ったので帰りは絶対に飛行機じゃなくて新幹線に決めた。確率や統計とは無関係に、おれにとって飛行機はそういう乗り物だ。
大統領でもぶん殴ってみせると言い切れるMr.Tだからこそ「飛行機だけは勘弁な」と言う資格がある。そしてその彼にしても結局飛行機には乗らされている。となればおれなどは考える余地もない。実際に飛行機のほうが新幹線より安くて早いので利便性でいうなら自動的に決まる。でもまあ1回で十分だ、べつに新幹線でも構わないんだから帰りは新幹線を使う。己の生と死を見つめなければジェダイになれねえような気がするけどそんなものになりたいと思ったことは一度もないのでべつにいい。おれは週に6日はただ漠然と生きていくことに決めている。
エレ…エスカレーター。
あと、なんかやけに暑いよ九州。ここ日本かよ。東京と全然気温ちがうよ。こんなんだったっけ?こんなんだったような気もする。汗かいてしまって上着とか着てられない。場違いなところにきてしまった。戻ろうか。いやここで戻るために来たんじゃない。
ひさしぶりに「海原川背 旬」をやったら「NINJA FIVE-0」の影響でラバーリングアクションがやけに重く感じてすごく下手になっていた。と、取り戻さなければあの感触を。簡単ルートで一応クリアしておく。
ひさしぶりにSSバーチャロンを遊んでみたらやたら面白かったので満足できずにDCオラタンを買ってきて対戦。お、おもしろい。猿のようにやりまくってひさしぶりに充実したゲーム対戦時間を過ごした。
ていうかPS2バーチャロンマーズとか、ゲームのおもしろさは別物としてもグラフィック的には明らかに後退してるよなあと改めて思った。何をどう見てもDCオラタンのほうが綺麗だ。まあスペック云々には4体出すにはいろいろ厳しいとかそのへんの絡みもあんだろうけども。PS2で開発してるひとたちは大変だな。
GBA「V-RALLY 3」があったので買った。
全然見当たらなかったけどようやくみつけたよ。もう日本じゃ買えないタイトルかとおもってた。
とりあえずプレイ中。なかなかいい。
土曜日。
オラタンの対戦のつづきをやったり麻雀をやったりしつつメンバーと合流。やーひさしぶりー元気してたー最近どうよみたいな定型会話をしながら、Kさんから最近のエロ本屋事情を聞いたり性的嗜好における売れ筋の変遷について情報交換をしたり、Tさんが持ってきていたゲームのイラストレータのエロい画集(←エロゲーの画集ではない)を見せてもらったりして過ごす。昼間はべつに猥談ばかりやってたわけじゃないっていうかほとんどやってないはずなんだけどそんなのばっかり覚えてるな。
夕方からSさんおめでとー飲み会。おめでとう。
合計9時間くらい飲んだような。
一次会では長い神様の名前(覚えた、「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしおみみのみこと)」だ)を教わったりした。
二次会は主に年寄りオタ話。
結局自分のルール上で自分を殺しにきてくれるような親切なやつなどは居ないというのがふつうの世間というものなので(←ラオウが「我が人生に一片の悔いなし」と言えたのは好き勝手やりきったあとにケンシロウに殺してもらうというところまでも完全にやったからだ式の考え方。生を完結させるための十分の自主性と死を完結させるためのケンシロウの助力あってこそラオウは一片の悔いもなく死ねたんだと思うし、同時にふつうは「わざわざ自分を殺しに来てくれるほどの理解者」を得られないと思う)、どうでもいい連中に関係なく殺されたり、または自分で自分を殺したりしないといけないとおれは思っているんだけど、人間なかなかそういうふうにはなれないのだなと思った。おれの場合は諦めたりくじけたりすることでかなり自由を獲得できたと思うけど、まだ十分でないし、そもそもやりかたがスマートではないのでこうした問題は当分考えていかなければならないだろう、たとえそれがおれの問題ではなくなっているとしても。
あと現在SFを楽しむための方法とか、古オタのトラディショナルなスパロボの楽しみ方とか、いろいろ話したような。覚えてたらまた別途書く。
地獄!つめた〜いコーンポタージュ。
買わなかった。
運とチャレンジャー精神は「使えば減るので温存派」と「使って鍛えないと大きくなれない派」の二大派閥があるように思うけど、最近のおれはどちらかといえば前者寄りだ。歳を食いつつあるということなのかもしれない。
日曜。
のたーと起きて、TくんとFくんと一緒に街に出てきしめん食ったりして、新幹線に乗って東京へ。
新幹線はずっと幼女3姉妹と同席で往生した。暴れるし手元のぞきこむしおれのデジカメとかCLIEとかGBAを物欲しそうにみつめるし。「おれはおまえになにひとつ与えはしないおまえはおまえのちからですべて奪い取るんだおまえがおまえのちからでつよくなったときおれから奪い取らなければならないようなものはなにひとつなかったということに気付くだろう」とか念じながらマリみてのつづきを読んだ。
物心つきはじめの女の子にマリみて読んでる様を見られるのはなかなか辛い。拷問だ。やめろ平仮名部分を音読するな。こんなんだったらふてぶてしくフランス書院のエロ小説でも広げてたほうがまだマシだ。あれは漢字が多いから幼女には読めないだろう。でも結局最後まで読み終わった。おれの恥はおれが知っている、旅の恥はかき捨てる、マリア様にだって見られてんだからいまさら幼女一匹の干渉ごときはずかしいもくそもあるか。
金曜から日曜まで居たけど結局ほとんどダラダラ同じ部屋で過ごしただけだった。とても満足した。いつもと違う場所だったけどなつかしい場所だったのでくつろげたし、またそういうのとは関係なく全然気兼ねせずダラダラした。最初から最後まで「帰ってきた」という感覚とは無縁だった。べつにおれの場所じゃない、そこはおれの場所じゃなくていい。そういう感覚をおれは必要としなくなっていたんだなということがわかった。
新横浜、東京、池袋と戻っても、帰ってきたという感覚はなかった。おれは今東京に住んでるし、住んでる街のことがふつうに好きだけど、それはなにかに替えられないようなものではなく、単純な好意だと思った。だからおれは東京が嫌いじゃないんだ。
おれはどこかに住むということを8年前にやめたんだろう。そういう感覚を持たなくなった。95年5月のことだった。以来おれは住む人間であるとはいえない。おれの部屋は確かにあるけどそれは街とはつながってない。犬みたいなもんだ。おれの部屋の匂いさえあれば、それで十分だ。すくなくとも今はそうだ。
おれはここから先に進むために将来、今の感覚を展張するか、それとも「住む」感覚を取り戻すか、どちらかを選択しなければならないだろう。というより、たぶん器用にやれば両立したままそれぞれをひろげていくこともできるはずなので、おれはそういうことをやりはじめたほうがいいのかもしれない。
8年前のおれは不器用だったから片方を選んだろう、たぶん。
「HOMEWORLD2」のデモムービーはここからダウンロードできる。
ちょっと笑ったのでメモしておく。
ビバップネタでスマン。
いくつかメモ。
うしろのほうで「8 mile」に関して重大なネタバレを含んでいます。適宜CSSで隠蔽していますが、お使いのブラウザでCSSを適用していない場合や、アンテナ等でぶっこ抜いてる場合にはそのまま表示される可能性があります。この部分→「」が普通に表示されており、かつ映画の内容を知りたくないひとは読まないほうがしあわせです。
おれはMATRIXについて受動的な鑑賞者だ。ウォシャウスキ兄弟描くところのMATRIXにおけるネオたちの戦闘を見ることでおれが享受できる興奮は、神林長平氏の描くマグザットと人間との戦闘を読むことで得られるそれより小さいだろうと予測している。その興奮は、たぶんもう知っている。金をかければ研ぎ澄ませるような種類の快楽ではない。技法や戦術の問題だ。だからおれはMATRIXを見にいくことに積極的になれない。
映像は興奮を伝えるために現状有利なメディアだと言えると思うが、完全なメディアとはいえない。
あくまでひとつの例として、たとえば文字は一度シンボライズされて脳内に入れるとき再変換されるという過程を要するので拙速で限界のあるメディアだが、それゆえに情報の多少の欠落によってもその完全性は保たれる。つまり、印刷が多少ボケようと紙がボロくなっても日焼けしても、それがその文字であると読むことができるうちはそれが描き出す物語は完全である。その点、映像は多少でも欠けたり薄れたりボケたりするたびに、その情報の完全性を容易に失っていく。
8 mileとMATRIX関連?の話。
EMINEM「Lose Yourself」でエミネムは"1 SHOT"と強く何度も叫ぶが、実際にはラビットは一発では終わらない。負けてもまたやっちまうんだ。人生は一発勝負かもしれないが、勝負は人生の中で一発しか許されないと言っているわけじゃない、ただ「今繰り出せるのは一発しかない」ということだと理解した。同時に2発かますことはできない、今、現在とは観測できるような薄さを持たない瞬間のことで、人間の口はひとつしかないのだから繰り出せる言葉は常にひとつだ。同時に2発以上ぶちかませるような奴というのは、法則を自在にし世界を抜け出し破壊するようなやつのことだ。つまりそれはたとえばMATRIXのネオであり、ラビットはそういう立場を取らない。
ラビットはスクリーン上で千手観音をやったり、時間を静止させたりしない。
彼は。
。
こうしたラビットの行動は、なんというか「抗MATRIX映画」としての「8 mile」を浮き彫りにするんじゃないかなあと思ってみたんだった、昨日。「8 mile」のような映画がこれまでなかったということはなく、(大抵黒人映画だったが)そういうものはそれなりに見た覚えもあるけど、それらはMATRIXを見に行ってそうなひとたちの見るような映画じゃなかった。だけど「8 mile」はけっこう普通っぽいひとも見てたので、あるいはこれとMATRIXをはしごしてるひととかも居たかもしれない。この2本の映画を対比させてみるのは両者にそれぞれ失礼な話かもしれないけど、どっちも見てのふつうのひとの反応というものは、どっちの映画に寄ったものになるのかなと興味が沸いた。
たぶんネオとラビットが最終的に求めるものはとても近しいものになるんじゃないかなと思うけど、そうしたかれらに与えられたシチュエーションやかれらが選ぶ行動は対称的でおもしろいんじゃないかなと。
8 mileみてきた。おもしろかった。
体調はあまりよくなかったので会社を早めに上がって、めし食って、それから見た。
レイトショーだけどすげえ混んでて参った。行列が入口から階段登ってずっと続いてぐるぐる回って、3階くらい上の映画館の中にまで伸びていた。せっかくマトリックスも公開されてんだしおまえらそっち見ろよとか思った。MTVか何かのアワードのときみたいに白シャツに金短髪の似非エミネムが100人ばかり階段にズラリと並んでたらそれなりにおもしれえよなと思ったりしたけどそんなことはなく客層はふつうだった。混雑は大嫌いだからおれもう今回見るのやめようかと思った(おれは会場の雰囲気がきつかったり映画がつまんなかったりすると、上映中でも席を立つひとだ)けど、我慢の限界が来る一歩手前で行列が動いたのでよかった。8 mileは、それくらいには見たい映画だった。
で、感想。
特になんということもない映画だったので特になんということもない。強いていえば普通だった。普通というか、昔気質の映画ということだったのかもしれない。特別なことはなにもなかった。普通にうそで、普通にリアルだった。まあこんなもんだ。これを見て特別に感じることのあったひとというのはたぶん、欺瞞を抱えているひとだろう。おれの自己欺瞞がおれの感覚に引っかからないほどに巧妙ということでなければ、おれは正直に生きているんだろう。満足だ。それは先週末に確認できたことだったが、それを改めて映画で確認するのも悪いことじゃないと思った。
エミネムについては最初見たときからおれは特に好きとか嫌いとかない。そんなに昔の話じゃない。2,3年前のことだ。白人ラッパーて珍しげだなあ程度の感想しか持ってなかったし、今でもそうだ。強いて言うなら関係ないのでどうでもいい、個人に関する興味ではなく行為に対する反応、つまり、ほかの大勢の中の一人だ。攻撃的ですがるところのない、おれが見たPV群の中での彼はいつも深刻そうで、またむつかしそうなひとが居るなと漠然と見ていた。彼の立ち位置は簡単じゃない。でもまあ、関係ない。彼の深刻さは彼を取り巻く環境と関係しており、その環境とおれは関係していない。
あたりまえだがエミネムがおれという個人を知ることは今後ともないだろうし、おれもエミネムという個人について知ることはないだろう。同じ空気を吸うことはない。せいぜい同じ時間に月を眺めることくらいはあるかもしれないが、38万kmを介してしか縁のないようなものは、それはふつう関係とは言わない。しかしまあ、その他人であるところのエミネムが演じているラビットの映画だから、この映画はおれにとって普通で、普通だったからおもしろかったんだろうなあと思った。
おれは特にエミネムのファンでもなんでもなくてよかったと思った。エミネムが好きとか嫌いとかそういう感情がおれにあったら、おれはこの映画を一番おもしろい見方では見ることができなかっただろう。
映画のあとSさんとTさんとバーにいって飲んで話した。普段あまりSさんやTさんとは話さないようなことを話して楽しかった。みんな苦労してんだなあ、おれはけっこう楽なので、この身の置きかたの違いはおもしろいなと思った。そして、たぶん、実際には似たようにきつくて楽しいんだろう。
その日は3人とも残業には戻らず、そのままそれぞれ家に帰った。
23:33 2003/05/25、生きて戻った。
今度ばかりは死ぬかと思ったけどべつに死ぬようなことはなかった。
家に帰ってPC立ち上げたらまっさきにメモ帳ひらいてF5キーを押すつもりだったので、そうした。
ほぼ完全な休暇だったが、さすがおれのやることにはぬかりがあるので最後の最後のツメに失敗し、画竜点睛は欠くことになった。せっかくドカ買いした銘菓ひよこを電車の中に忘れてきてしまったのだ。日ごろから手荷物を持つ習慣がないため、荷棚に置いた紙袋のことなど置いた時点で忘れてしまっていた。みやげなしということになってしまうが、まあいい。おれが他人にみやげを買っていくなんていうのは、まだ早い。
ここでいう空手っていうのは武術のあれではなくて、なにも持ってないっていうようなニュアンスで。
つのだじろう「空手バカ一代」を読み返すたび、ようするにおれは徒手空拳のオタとして仮想上にある最強を夢見つつ暮らしたいんだなあと思うが、おれは宮本武蔵氏については消費行動の中にあってしか意識したことがなく、とりたてて感慨もないので、むずかしい。Tさんはおれを天上天下唯我独尊のひとだねと言ったが、そういう台詞が出てくるということはTさんは自分で自分を天上天下唯我独尊ではないひとだと思っているということになると思うがたぶん実際にはそういうわけでもなく、ということはたぶんおれもまたTさんから見て実際には天上天下唯我独尊ではない。おれ自身がおれをどう捉えるのかは、明らかに問題じゃないので、それはどうでも構わない。
いはゆる空手にして最強のオタってのはどういうんだろうなと漠然と考えてきた。
空手、なにも持ってない、なににも頼らない、財産を持たない、より正確には何らかの思考や判断の結果としてそれを持つことのない、しかしそれでいながらにしてオタ。ものやことに対する執着を捨てず、しかしそれを手に持つことのない、それを必要とはしないオタ。「なくてはならない」と「あったらうれしい」を完全に見極めそれを自在にする。ものことに対するオタの強さをそのままに、ものことから生じるオタの弱さを捨て去って、オタはオタにしてようやく仙境に達するのではないか。
懐古や愚痴に走るでなく、流れに従わず逆らわずこだわりを忘れず、淡々と進みたいだけ進み戻りたいだけ戻るオタというか、そういう境地に至ることはできるはずだ。自分で書いててもなに言ってんだかさっぱり意味がわからないが、さっぱりわからないからといってどうにもならないわけじゃない。
そんなひと現実に居たためしはないとは思う。すくなくともおれは見たことがない。しかしだからといって居ないとは言い切れない。空手のオタは、己の業から自由でない(=ふつうの)オタにとて不可視の存在となっているかもしれないからだ。光を反射しないものの色は見えない。ソナーでは音を反射しないもののかたちはわからない。オタの目は、業から自由な人間の存在やその動きを捉えることができないかもしれない。それは十分にありうる話だ。
同人か?つまり外から刺激を得ることなく自分で作って楽しめるっていうことか?いやそれは違う、おなじことだ、それはありふれた、目にみえるもの手に取れるものを作ってそれを消費するというサイクルだからだ。中でも外でもかわりない。運動があり、エネルギーがある。そういうのを超えてただ存在するという試みを模索できないか。つまり、一見「なにもやらない」に近い状態でありながらそれとまったく違い、いうなれば「無を食う」ということをやるのだ。想像からも自由になるという意味か、それを捨てるということかもしれない、具体的な像に帰結するようにしか想うことができないなら、それを捨てるのは近道かもしれない。
結局仙人か。仙人は酒だけ飲んで、あとは霞を食って生きるっていうし。
ともあれ、空手オタへの道ははるかに遠い。おれの一代はまあ、空手オタとは無縁のままだろう、それを残念に思うべきかどうかもおれにはなんともわからない。
こないだの散歩時に、芝生と電気の石を介したテクノ的邂逅にやたら興奮してバシバシ撮りまくった「電」写真のうち多少まともそうなものを抽出。
「電」杭ひっこぬいたらラピュタロボのいっぴきくらいついでにぬぬぬっと出てきそうな風格。
クリックすると拡大画像が出ます。
おまけの「電」。クリックしてもなにもなし。
なんかログ移動するときにまちがって日記をいっこ消してしまったような気がする。
聖闘士星矢に比べれば、妹12人などはなにほどのこともない。「ある日突然、あなたに100人もの兄弟ができたらどうしますか?」てなもんだ。ていうか城戸光政さんは今でいうと宗教にハマって大事やらかしちゃった大財閥のワンマンボスっていうかんじなのだろうか?
あと聖闘士達の現年齢一覧表(JAVA使用)もおもしろかった。星矢ももう三十路かよ。あんまり関係ないけど、Leaf「痕」4姉妹の長女・柏木千鶴さんも今年でめでたく30歳だそうだ。
終わった話のその後に現実の時間をそのまま適用してみせることには若干の違和感があるけどもまあ解釈がおもしろいかどうかなのでべつにいい(なんとなくこういう場合は、キャラクタ寿命なども考慮して一般的に現実時間/2程度の時間の流れを適用するとけっこういいかんじなんじゃないかなと思ってはいる)。作中で死んだひとはそこで時間が止まるからそれ以上歳を取ることはないけど。14歳で死んだアイオロスのように。そういう意味ではゲームの場合結末がひとつでないぶん扱いが厄介になる。ゲーム中で死んだ可能性上にある柏木千鶴の時間は23歳で止まっているはずなので、今年30歳を迎える柏木千鶴は生き伸びた可能性上にある柏木千鶴ということになる。だから三十路を迎える彼女の脳裏に耕一との悲劇の記憶は存在しない。
あーまた関係ないけど以前「貧乳を宿命づけられた柏木千鶴といえども出産して赤ちゃんにおっぱいあげる時期だけは別!もう絶対!確実に!そのシチュエーションを想像しただけでもうおれは!おれは!!」とか興奮気味に語っていたひとが居たけどあれは誰だったっけ?
ジョジョを第1部から第6部まで一気買いしたい衝動にかられている。最低限第4部だけでも。しかし、ここは抑えるべきだ。おれはジョジョを衝動で買うような人間ではない。衝動を理由に買ってはならない。
とりあえずメモしておくけど、おれが思ってることはおれの書いたことそのままではない。
先週末にMさん家でストリームで見たHalf life2のデモンストレーション撮りムービーがQuicktimeで上がってたので必死こいて落として見た。おれもあれ見たとき物理シミュレーションとかにおどろいたわけだけど、あのへんのことはこれまでの同系列の作品で連綿とやられてきたことを豪華に見せてるだけだから、ずっと追っかけてるひとなどにとってみればそんなに珍しいものでもないんだとか。ふうむ、そういうかんじか。
あと物理シミュレーションはデータ量の関係でシングルプレイ時にのみ活用されて、マルチプレイ時には無効になるんじゃないかとか。あー。ネットワークごしにドラム缶つかってロケットランチャーで蹴鞠できるようになるのはもうちょっと先か。
ていうかなんといってもやっぱりあの幕の内弁当状態のなんでもやっちゃう感がすごいな。ゲーム開発の規模や底力の差や、最先端までの距離をまざまざとみせつけられる思いだ。AI制御のキャラクタ(人間、巨大虫、ロボ、火星人襲来みたいな巨大メカ等)はいっそう洗練されていてバリエーションもすごそうだし、ポケモンボール(誘導餌?)つかって虫を使うアイディアとか、トラクタービームでいろいろ掴んで動かしたり、乗り物関係も一通り期待できそうだし、とにかくいまの技術でできること全部ぶちこんじまえみたいな勢いだ。ウチのエンジン使えばひととおりのゲームはできちゃいますぜみたいな。
ただMさんから指摘されておれも「あー」と思ったけど、逆にあまりに(システム・グラフィック・描画・ゲームデザイン等あらゆる面で)なんでもひととおり詰め込んであるために統一感には欠ける印象はあった。ショーに出すものとしては好意的に見ることができたけど、パッケージに収めるときにはあのへんから適当にいくつかずつ見繕って選ぶというかたちになっていくのかな。
DOOM IIIと比較するようなタイトル(扱い)ではないかもしれないけど、対照的でおもしろいなと思った。
あと、なんというか雑感として、今回のE3タイトルの並びには、完全にとどめを刺されたというかんじだった。
さすがに世界つええよ。大雑把だけどすげえストレートだ。連中は素早く、小回りも利いて、目が据わっている。パワーがあり、頭もいい。どういう人間がゲームつくってんだ。これがノってる業界の勢いってやつか、底辺を這いずる日本からとおく望遠してるから連中の気を吐くさまがすごそうに見えるのか。いずれはやつらも落ちるだろうが、その頃までおれはゲームを見届けていられるか。
日本で閉じた日本のゲーム会社ではああいうものを作らないだろうし、作れないだろう。日本で閉じてない日本のゲーム会社もあのクオリティのものを作るのは至難だろう。…ガイジンのやることはおしなべて雑なので、そこに日本のゲームがつけいるガラあきの隙はありそうだけど、そういうところで小奇麗に勝ちを拾うだけじゃあだめなんだ。やっててションボリするようなゲームは辛いからだ。それになにより、最近連中はこっちの領分であるところの小利巧さや小器用さまでも習得しようとしている。
層の厚みが根本的に違うのかなあ、開発者がハードの進化に追いつけなくなってるのかなあ。
現状でももう差ははっきりと見えるし、広がる一方だ。PS2とかでやってるぶんにはその低いスペックがむしろ日本にとってはプラスに働いているはずだ、大技を使える広さがないなら小技同士の勝負で大差はなかなかつかない。でもPS2が現役を終えてPS3になった頃、当代一流のゲーム画面を作れる開発者が日本に何人残ってるかが問題だ。日本に人材が居ないなんてことはないだろうけど、絶対数が少ないってのはあるだろうなあ。そういうひとがバリバリやるための環境や、それを支える市場を国内で見つけたり用意したりするのはむずかしいだろう。
牙は研がなければ腐って落ちる。自分の牙の使い方を知っている人間ならそれが折れることよりも腐ることを怖れるだろう。そうなるとやっぱし頭脳の国外流出の未来しかないのかー。個人としてそれはそれでもいいんだけど、しかしなんかいやだ。
CAPCOMとかKONAMIじゃだめだ、NAMCO…もしばらく潜る必要があるだろう、任天堂はどうにか戦っていけるんだろうか、これも最近やばそうだ、孤立化が進んでいるし。モロに窮地に立ってるのはセガだ。日本でセガみたいなことをやれているゲーム会社はセガくらいだけど、世界じゃ同レベル以上の強豪がウヨウヨ居るぜみたいなジャンプ的世界だ。どっちにも通用する会社になるか、どっちからも突き込まれて座死するか、二つにひとつだ。とか思った。
ゲームのおもしろさはゲーム機云々じゃないなんていうのは百も承知だが、おれはカードや競馬やチンチロリンじゃ満足しない。コンピュータゲームは技術の進化と共にあってゲームデザインは常に制約の中で生まれた。その枠は全然固まっていないし日々着実にひろがっている。おれはおれが見たい触れたいあそびたいものを具現化してくれるものとしてただゲームの流れに乗ったり利用したりしたいわけじゃない。そんなのはふつうだ。満足したらそれでおしまい、成仏だ。じぶんの見たいものだけじゃ我慢できなくてゲームの「前」にあるものを見続けていたいっていうのはこれも重大なゲーオタの業のひとつだ。自分から成仏なんてのは冗談じゃない。くたばるまで追い続けて食い続けたいんだ。
いずれ見届けることができないほど遠くへいってしまうのかもしれないし、それ以前におれの目が耄碌してそれを捉える術を失うのが先かもしれないが、その最先端がはっきりと日本から遠くなっていってしまっている、その徴を見たような気がして、今とてもさびしい気持ちだ。
と、書くだけ書いてすっきりした。NINJA FIVE-0のつづきやろう。
んー、しかし、XBOXはもう明らかに国内ゲーム会社(セガ除く)には一片の期待もなく買ったけど、GBAは「このスペックなら日本のゲームもけっこう遊ぶだろおれ」と思って買ったんだよな。でも買ったタイトル数えてみれば結局GBAですらおれが買ったゲームは洋ゲーばかりだ。これもまたなんかヤなかんじに数字が出てしまっているなあ。
そんなにゲームナショナリズムを満足したけりゃPS2買えばいいじゃんとなるけど、それは買わないんだよな。そこんところの割り切り具合も残酷だおれ自身が。がんばってくれるとうれしいけど基本的に死んでもらっても構わないと思ってますみたいな。あーおれのこころの乾パンがここにもまたひとつ。
絶対幸福と相対幸福っていうものがあって、流動的(ふつう)に感じることのできる幸福感は相対的なものだろうと思っていて、瞬間的に(または完結するものとして)感じるのは絶対幸福だろうと思っている。
昨日よりうまい飯食ったとか、去年よりいい家に住んでるとか、そういうふうに過去と照らして今がしあわせっていうのは相対的なひとつだ。あいつの悲惨な状況を見ればおれなんぞは全然マシとかいうのも相対的なひとつ。
去年より暮らしがいいとか悪いとか関係なくて毎日おまんま食えてるんだからそれで問題なくしあわせとか、他人がどうとか関係なくておれにはきれいな嫁さんとかわいい子供が居るんだからそれでOKとか、そういうしあわせのかたちもあるよな。過去とか他人とか比較する必要のない絶対的な基準としての。
で、人間がもともとそうなのか、現代人がそうでなくなってしまったのかわからないけど、なんていうかふつうに暮らしてるぶんに自分が幸福かどうか考えたときなかなか絶対的な判断をしないよな。特に意識しなかったら相対的なほうにいっちゃうような気がする。せいぜい芝居がかった大仰なジェスチュアで自分を奮い立たせるときにそう振舞ってみせるくらいだ。絶対幸福は、生身の人間の肌に合わないのかな。そんな馬鹿なと思うけど、しかし実際現状はそのように見える。
でも見渡してみれば絶対幸福ばっかり追求してるものだってあるんだよな。なにかっていうと、生身の人間じゃなくて、たとえばフィルムや紙に固着してしまってるひとたちとか。映画、小説、物語。きみがいればとかあなただけとかちっぽけでもこれさえあれば世界は薔薇色とか、まあそんな濃厚にラブまみれなものばかりじゃないけど「ひとつを手に入れたり守ったりすることで世界は変わる」って言っちゃうことは、けっこう絶対幸福につながる思想に思える。ほかは問題じゃない、おれのしあわせってのはつまるところ、こいつのことだみたいな。んー、単に宗教とか過去いずれかの歴史年代的な価値観に寄った話なのかな、このへんはなんともわからん。
いや宗教だろうと歴史だろうと成語化された知識・思想・思考・体系なわけだから、それもまた源流とかじゃなくて同様に影響を受けているもののひとつと考えてみることもできるか。つまり絶対幸福はほかの何でもなく言語とか歌とか「規格化された表現」自体が生んでいる、もともとの動物としての人間には捉えられなかったものなのかも。
一瞬それっていうのは相対幸福ばかり追求している現代人へのアンチテーゼみたいな意味合いで物語に絶対幸福が多いのかと思ってみたけどそれはたぶん違う。メディアの特性の問題だろう、つまり、人間という生きたメディアは相対化するのが得意なので幸福についても自然と相対的に処理してしまいがちで、作品という固着されたメディアは絶対化が得意なのでしあわせのかたちについても自然と絶対的なものになりがちみたいな。
どっちも得意分野に伸びていってばかりでバランスがいいとはいえないと思うから、人間と物語には交流が必要だろう。似た者同士も大事だけど、他者との関係からはより多くのことを学び取ることができる。
そういや日曜にカレー食いにいったときに、MさんがエロゲーブランドCAGE(RUNEの鬼畜派生)の新作のタイトルのことを話をしていたなあと思ってみにいってみたら「恋する妹はせつなくてお兄ちゃんを想うとすぐHしちゃうの」だった。あー。確かに略称がむつかしいかんじだ。「すせすし」とかどうだろうか。
あと妹の中にかわいい弟キャラもばっちり混入してみせるRUNEは、やはり手ぬかりのない会社だなと思った。流行の一歩先を行き、そして一足うしろもきっちりフォローしている。
HTMLを説明するうまい例。
URLメモ:http://www.mainichi.co.jp/digital/computing/199908/20/02.html。
自分のPCのニックネームとしての"FRED"。Friendly Reliable Electronic Deviceの略。
Excite直訳で「親しみのある信頼できる電子装置」となる。
そういえば、JPホーガン「未来の二つの顔」の犬を飼ってた人工知能は、あれはなんという名前だったっけな。
A#によると、海王星が春らしい。星野之宣氏あたりなら、このネタつかってまるで見てきたような景気のいいハッタリ漫画をバリバリ描けたりするのかな。というかA#のひとの目のつけどころは、いうなればおれの背中のかゆそうなあたりにちょうど合ってるかんじなので非常にいいサイトだと思った。
あと海王星にはセーラーネプチューンが住んでいるはずなので、-200℃の春はそれなりに楽しんで謳歌されているのではないかと思った。血も凍る小春日和っていうか。
思いもよらないところからおれの昔の住所判明。あー、そういえばそんな住所だったような気が。
昔の住所なんてそんなもん引っ越した3秒後に忘れるのでまさか判明するとは思わなかった。今の住所も覚えてないくらいだ。自分のところに届いた明細書とかを見ないと自分の住所書けないっていう。もともと他人がおれになにか送るときに使うものであってべつにおれがおれの家になにか送りたければ自分で持って帰ればいいわけなのでそんなもの覚えておく必要ないんだっていう考えが根っこにあってそれが邪魔している。
基本的には名前と同じ問題だ。インドかどこかのなぞなぞだ。自分のものだが主に他人が使うもの。自分の名前、自分の住所。名前の意味はおれを縛る(=そのように感じる)のでおれは自分の名前を意識する必要があると思うけど、住所の文字の羅列に意味を見出せない場合には、それは俺を縛らないのでおれは自分の住所を意識しない。
実体としての住んでるところっていうか街は重要だけど住所っていう情報にはアクセスポイント程度の意味しか感じることができないし、それは使いようによって便利に活用できるだろうけどおれはあまり使わない。
食いたくもない晩飯をまた食ってしまった。半端だ。
食いたくなってもいないうちから食うのが晩飯といえるか。腹が減ったときに飯は食うべきだ。晩になったから食うなんてぬるい考えでおれは一体なにをやっているんだ。まるで代償行為のようだ。おれはほんとにめしが食いたかったのか、ほかのなにかをやりたいのにそれがなにかわからなかったから手近な飯屋に入って適当に注文してしまったのか。そんなのはただ漫然とエロゲー積んでる様式と何ら変わるところがない。どうせエロゲーやるなら嬉々としてやりたいんじゃないのかおれは。いやべつにエロゲーじゃないんだ。めしの話だった。おれはもう特に食いたいと思わない晩飯を食うのをやめたい。
あー、やらないかんことがスタックされていく。
あとこのページに積んであるメモは書いても全然自動的に実行されないので意味ねえなと思った。そういうふうに習慣付けようとする決意の度合いが不足しているし、補強されない。次の日記に移るとき用のやりかたということで保留しておくことにするかな。
DoGAのCGAコン上映会でおもしろかった休憩時間中のあれの正式タイトルは、「超ドレッドノート級スーパービッグスケールサイエンスアクションヒューマンスペースオペラ銀河大戦争永久保存版DVDコレクターズエディションサードシーズン初回限定プレミアムボックス(マイナスイオン入り)」だったと判明。
URLメモ関係。
いかん、電話しながらメモしてたらだんだん眠くなってきた。途中だけど一端寝る。
エロゲー「巫女みこナース」の音楽担当のるざりん氏というのは、超連射68kのBGMを担当したるざりん氏だったのかー。
俺ニュースで紹介されていたのでメモ。DoGAがCGAコンテストのビデオをDVDにしない理由(23日28日あたり)。
過渡期でのメディア選定は読みのむつかしい問題だし、アマチュアでやってるぶんに危ない判断をする必要はまったくないので、古きをもって尊しとなす式でやっておいて、完全に切り替わったと判断できたときにはじめて次のメディアに移っていけば問題ないってことなんだろうたぶん。具体的にやるとすればたぶんCD-ROMは諸般の事情や問題からスルーされて、おそらく選択肢になりうるのはDVD-ROMということになり、最初VHSとDVDの両方で出して反応を見てそこから比率を変えていくみたいなかんじに移っていくのではないかなーと予想してみた。
べつに利潤追求でやってるわけではないだろうし、明確にターゲットを絞り込むような戦略は採らないだろう。逆に効率よりは「なるべく多くの、できればすべての層をカバーする」方針が強いのではないかと思う。そういう意味で最も古く安定しているもの(VHS)を第一に押さえる姿勢は自然だ。「VHSとDVDどっちでもいいけど、強いて挙げるならDVDのほうが便利」という程度では判断材料になりえないだろう。現在VHSにとどまってる理由のひとつに「VHSでなければ再生環境がない」とする層への配慮があるくらいなんだから、VHS以外のメディアへの移行のためにはそれこそ「VHSでは再生環境がない」というひとの数が基準を超えて増加するなどの状況が必要だろう。
そして、ここで判断される状況とおれ個人の問題は、一見重なるようでいて重ならないものだ。
おれの場合の話というのはべつにVHSの再生環境を買えば済むのにその可能性を採らないと決定しているだけなのであって、世間の動向と関係がない。売ってるし買えるけどおれは買わないという話だ。こういう人間がVHSのビデオをどうしても見たいと思ったなら店にいってデッキ一台買ってくればいいだけだ。自覚して捨ててるんだからこれは自業に対する自得のひとつで、単純だ。せいぜい残念とかくやしいとかそんなものだ。問題にならない(←「ああ、まあおれがやったことの結果だからね」というかんじで)。
問題になるとすれば「店でVHSデッキを買うのがむずかしくなった」とか「そもそも物心ついた頃にはVHSの再生環境なんて過去の遺物でした」とか「ふつうに暮らしていて、いつのまにかメディアがVHSからほかのメディアに移っていた」とか、そういうひとが増えてきた場合だ。ふつうのひとは無自覚にメディアを移行していくものだし、そういう変化に対しては提供する側で配慮をしたほうがいいと思う。無自覚なひとにとってメディアにアクセスできないという状況は自分に対する差別や自分の被害に感じられて、かなしいだろうからだ(←「べつにおれなにも悪いことしてないはずなのに…」というかんじの)。
で、そうまでの段階では、まだないっていう判断なんだろうなとおもったっていうか、最初何書こうとしてたんだか忘れた。なんかVHSとかDVDとかCDとかそれぞれのメディアを検討した場合の長所短所とか並べて妄想してみようとか思ってたような。
A#がMovable Typeを導入していた。特に根拠はないけどWikiとか好きそうだなっていう偏見があったので、MT導入は意外だった。あとなんとなくリンクしづらい雰囲気のあるサイトだったのでリンクしていなかったけど建前上はそんなこた知ったこっちゃないわけだしこの機会にリンクしておく。
ところでMovable Typeといえばおれその名を聞いてしばらくの間「んあー、モバイルタイプ?なんかPDAとかに特化したBLOGの亜種なの?」とかいう勘違いというか読み違いをしていたんだよなと思い出したのでメモ。つまり文字認識レベルですでに低関心っていうか、ちゃんと読む気もなかったのかーさすがボンクラのやることは一味抜けてるなと思った。
秋葉原から渋谷まで歩いた。
昨日の昼。ひさびさに長い散歩。
Tと自転車活動をする計画を立てつつも、空模様が不安定なので結局安全策をとって遠足部活動に。
秋葉原からのんびり皇居を通って桜田門から出て六本木→渋谷まで。写真わりと撮ったけど曇り空だったのと適当にバシャバシャやってたせいでピンボケとかかなりあって全然使えないや。一応あとでまとめる予定とする。
CGAコンテスト上映会に行けなかったNさんが「それはさておき、DoGA主催なんだからインターネット上映会ぐらいやってくれてもいいんじゃないかと思ったり。1Mbpsぐらいで」と言ってたけど、まあそうなんだよな、さらに欲張りを言えばネットでライブ中継して拍手のほかにオンライン投票とかもあって会場にはホットスポットとか用意されててオサレブロガーのひとなどが会場からガンガン日記を更新したり記事を投稿したりとかしててとかしたらなんとかコンベンションとかなんとかカンファレンスとか「コン」のレベルがあがって来週もミラクルかっこいいぜと思うけど、CGAコンの上映会は基本的に飾りの部分は徹底的に経費削減でいってるっぽいのでそういうふうにはならないんだろうなあと思った。
ていうかそういうふうになっていくとスポンサーが入って参加者から入場料取って期間も1泊2日とかになってとか、めんどくさいかんじに手間が増えていくかんじになってしまって「いやそういう手間隙をかけるためにやってんじゃないし」みたいな話になるのかもしれないしなっていうか、アマチュアCGアニメの需要はそこまででかくなってないんだろうし。
それはまあ置いておくとして、DoGAのひとにはコンテスト応募作品集をビデオで頒布する様式はそろそろやめてCDなりDVDなりの形式に移行していただきたいんだけど、いまもってVHSでやってるのは何か意味があってのことなのかな。単に応募方法がビデオテープ送るっていう方式だからビデオなのか。それとも一応オリジナルのデータの価値を保護するために、コンテスト作品集ではダビングされたVHSテープなので完全なコピーではなく必ずデータが多少欠落したかたちで頒布していますよーみたいな姿勢を示すためなのか(作品の作者のひとが自分の作品の販売を考えたとき、DoGAからオリジナルと完全に同じデータが頒布されてたらまずいだろうしみたいな)。それともそんなめんどくさい話ではなく、プレスにかかるコストが厄介な問題としてあるってだけなのかな。
多少画質とか音質とかわざと落としたものでもいいので、ディスクメディアで頒布してもらいたいんだけどなあ。単におれの場合だとVHSとかで売られててもそれを再生する機械を持ってないし今後も買う予定がないっていうだけの話なんだけど。そもそも、おれは現在までに自分で自分専用のVHSのデッキを買ったことも、持ったこともない。
おれは94年あたりで(アナログな)テープメディアにデータを保存したり鑑賞したりする習慣をほぼ完全に捨ててしまっている。といってもその時点からすぐHDDとかCD-Rなどの(デジタルの)ディスクメディアに移行したっていう意味ではなく、(その時点では)「テープに記録するくらいなら最初から保存しようと考えない」というふうになったということだ。映像記録のためのディスクメディアっていうものを意識するようになるまでには2,3年ほどのブランクがあったはずだ。
デジタルなものと比較検討して捨てたわけじゃない、単に他に選択肢もないしなんとなく使ってたものに徐々に嫌気がさしてきていて、それが限度を超えて「あー、もうそろそろいいっすよこういうの」と思ったのが94年あたりだったということなんだろう。
アナログな記録方式のよさもあるよなとか建前上は思ってるしその利点が生きる局面も想定できるけど、じゃあ自分はどうなのかといえばデジタルなもの以外選択肢に入れてないっていうこの態度はいやにはっきりしてて、なんとも品がないというかカンパンみたいに味気ないなあおれ。
加野瀬さんからメールで、
との指摘があったことをメモし忘れ。
マクロスっていうと板野サーカスの印象が強すぎるために「グネグネ曲がってるのは、あれはミサイル」みたいな刷り込みがあってしまっていたんだけどそういえば曲がってるレーザーあったっけかな。ゼントラーディー軍とかはふつうに曲げてたような気も。
一昨日、昨日ときて今日も雨。
結局今週中には喉の修理ができなかった。また調子の悪い週末だ。五月病っつーか単純に風邪だよ。
連続といえば、先々月、先月、今月と7万円立て替えすることが多い。
立て替えだから金は戻ってくるしどうでもいいんだけどなんだろなこの7万て数字は。なぜいつも7万なんだ。バシャールとかグレイとか時空連続体とかそういうなにかがおれに重大な指令を伝えようとしているのだろうか?
Tさん30さいおめでとうございます飲み会。
金曜夜でどこも混んでて、ようやく入った3軒目の飲み屋だったけど、セーラー服着た女子中学生2人がふつうにめし食っててびびった(おっちゃん2人と同伴だった)。そういう店かと思ったよ。どちらかというと地域に根付いた居酒屋というかんじだったので、あれは家族か学校の部活帰りだったのかもしれないけど、なんかへんな取り合わせだった。おっさんはおっさん同士で酒飲んでなにか話してたけど、女子中学生はやけに淡々と飯食ってるかんじだった。ていうかいまどきセーラー服自体珍しいよな。
80年代くらいの邦画で見るような、へんな光景だった。
体調が悪いこともあってビール2杯で適当に酔っ払って、出てきた料理はなんでもうまかった。特にほっけ。ほっけうめえよな。おれはほっけファンだ。居酒屋とかいったら必ず食う。あれは人間に食われるために生まれてきたような魚なので申し訳ない。あれをうまく食える環境があるのがありがたい。
あー、今日晴れてたら自転車も完治したことだし秋葉にでもふらっと出かけるかなと思ってたのに(池袋-秋葉は徒歩1時間半くらいだったので、自転車ならその半分以下だろうと目算)、雨ふってるし、困るなあ…。