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03/04/11-20
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日々

昨日。
MRSKP(ペンネーム)から昼に電話で誘われたときは低調だったので「行かないー」とか答えてしまっていたけど結局行っちゃったんだよ機動戦士ガンダム劇場版I/II/IIIオールナイト。すまんMRSKP。でもギレンコスプレで見にいくってのはやめといたほうが正解だったとおもう。そこいらへんの空気感に関しては素人同然なのでよくわからないが、たぶんそういう雰囲気ではなかった。

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かなり混雑していたけど、そのわりには快適に見ることができた。騒ぐひととか多少はいるかもしれないなあと思ってたけど全然居なくて上映中は静かなもんだったし。

映画は、さすがにおもしろかった。いやたいしたもんです。こりゃハマって抜けられなくなってもしょうがない。
ガンダムの劇場版は見たこと自体は何度もあったし大学時代にみんなでプロジェクタ設置して一挙上映会とかもやったことはあったんだけど、まともな映画館ででかいスクリーン(新文芸座のスクリーンはかなりでかい部類)で見ることは、たぶん今後も含めてそう何度もあることじゃないと思っていたから、見にいったのはやっぱり正解だった。

DVDとかほしくなった。けっこう見返したくなる。

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客層はわりと若いひとが多かったようなかんじ。もっとおっさんオタが多いかと思ってたけど「そもそも初代ガンダムを全然知らずに見にきてたひと」とかもポツポツ居た様子。へえ、そうなのか。一応ちょっとはかじってるらしいひとが全然知らないほうの相方に必死でガンダムの設定を説明しているさまがほほえましかった。どの世代もそういうシーンは通過するものだな。
あとTさんから以前「行き過ぎたガンオタ同士はお互いガンダム論議を避ける」という話を聞いたことがあったので、同行者同士などでもあまり感想会話がみられなかったのは納得だった。単にこの場が「静かなオタ」の集まりやすい場所だったという話かもしれないけど。

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本編上映前にあった、ガンダムAの編集長である古林英明氏と北爪宏幸氏のトークショー(これがあるっていうことを開場直前まで忘れていた)を胃を押さえながら聴いたり、そのあとの質疑応答をドバドバ脂汗たらしながら聴いたりしただけでもかなりおもしろい経験だったとはいえる(一緒に行ったTも「も、もうこれだけで十分以上に元は取った」と笑いをかみ殺していた)。
んーしかしオタ的にはそうでもないのかな。おれやTは作品的にはわりとどっぷりオタ汁に漬かることこそ多いものの「オタ集団が集まったイベント」にありがちの通過儀礼的なものへの抵抗力とかは相当弱いほうだと思うし。上映イベント併催トークショー経歴の長い古オタ者のひととかにすれば「あんな程度は何ほどのことでもない」で済む話なのかもしれない。たいしたことのないものをたいしたことだと感じてしまうのはオタとしての恥と思うので、このあたりの判断をするためにはもうすこし経験を積んでおきたいところだ。

それはそれとして一応トークショー感想メモ。

間の噛み合わないトークショーって見てて神経がすり減るけど、そういう場に無責任に立ち会うっていうのは得がたい楽しみのひとつではあるんだし(逆に責任を負って立ち会うというのは比類ない地獄)、あの場でたぶん一番胃が重かったのは古林氏なのかなと漠然と思ったりしていた。職業人って辛いところだな。日本の職業人のみなさんにはがんばってたくさんの勝ち戦をやってほしいなあと思った。あーでも古林氏が昔徳間文庫「デジタルデビルストーリー」の挿絵の仕事で北爪氏を担当をやっていたという話はちょっとなつかしかったのでよかった。おれそれ読んだことあったよ昔。アニメージュ文庫っすかあああ。

質疑応答はもう最強の辛さというかいたた(痛た)まれなさというか、胃に鉛の手ごたえを感じつつ歯噛みしてひたすら耐えた。冷たく重い脂汗をダラダラ流した。おれがガマだったらあの時間にはさぞいいガマの油が採れたことだろう。10年前にも20年前にも居たようなオタのひとが、なぜ2003年の現在でも当時そのままの姿でこの会場にもあらわれるのだろうか。時空を超えている。ひとならぬフィルムでさえ傷やら何やらで昔そのままの姿では居られないというのに。(いかなる種類のものであれ)確固たる精神の不滅を垣間見た気分だ。すごい。なぜかもう「ありがとう」の念で胸がいっぱいだ。おれはもう限界だと思った。
かれらは疑いなく正真正銘のオタクだし、その周囲で34℃の絶対沈黙を形成する場の一席を担っているこのおれも、間違いなくオタクだ。タイムスリップして03年の未来にやってきた彼らの時空移動にひきずられ、おれはそれを逆に辿って10年前の自分自身に身を移して当時と現在の居心地の悪さを同時に味わう。

おれは限界だと思った。

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おまけ。池袋東口にあるガンダムっぽい店。

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ビックカメラ本店の横のあたり。

23:18 2003/04/20

日々

まえにどっかのインスタントラーメンメーカーが、ちょうど3分くらいで読み終わるミニ漫画をカップ焼きそばか何かにおまけでつけてたけど、似たようなかんじで演奏時間がちょうど3分のmp3ファイルか何かをwebで公開してくれないものか。ていうかそういうの既にどっかにありそうなもんだな。
ちょうど3分の曲を集めたサイトってどこかに無いかな。または参加作品に「ちょうど3分の曲であること」みたい規定のあるCOMPOとか。

先人を発見。呼ッ。

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「呼ッ」といえば、Googleで「呼ッ」を検索すれば当然グラップラー刃牙関連か三戦(「サンチン」と読む)に関する薀蓄のページが1位に来るだろうと思ってたら、なぜか「カウボーイビバップ」の二次創作小説が1位になっててちょっとおもしろかった。このページがpreタグで文章を無理やり縦書きしているため、単語がへんな引っかかり方をしてしまっているようだ。

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適当に探してみたLOTR関連のジョークページのくだらなさがちょっとよかった。こういうページはいくつも読むもんじゃないけどたまにいっこくらい探してみると楽しい。なぜボンクラ外人は例外なくつまらない下品ネタでHAHAHAと笑いますか?みたいな感覚を再確認できる。

そのページで紹介されてたこの画像、どうやら「はっぱ隊」という日本の芸能グループか何かの写真のコラージュらしいんだけど、おれTVとか全然見ないひと(買ったTVにアンテナをつないだことがない)なので、その「はっぱ隊」の本物を見たのこれがはじめてだ。顔はコラージュされてるので、からだ部分しかわかんないけど。まさか外国人のやってるしょーもないネタページで日本のTV文化の飛沫を発見するとはおもわなかったよ。

はっぱ隊はコントのネタらしい。ああ、ウッチャンナンチャンのひととかなのか。なるほど。わかった。

16:29 2003/04/19

web日記の近未来にある統一化と多様化の闘争の妄想

あーこのへん書こうとするとどうせすごく長くなっちゃうよなーと思ったら案の定以上に長くなった。もうだめだ。
ちゃんと文章をまとめたり削ったりする工程を入れればいいんだけど日記でそんなことやるのは間違いだと思うし。時と場所をごっちゃにするとこういうことになるけどそれをするための場所と時なんだしなあ。悩ま椎造。

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Afternoon*teaというサイトの絵日記がおもしろかった。
この日記がおれにとっておもしろく感じられる理由は、その内容にある「ふつうの日記っぽさ」もさることながら、その手法にこそ大きく求められるだろう。つまり、絵日記だからだ。

絵日記、その絵と文字は当然のことながら手書きとなる。手法は問わない。紙に描いてスキャニングしてもいいし、PDAのお絵描きツールやタブレットPCからガリガリ描いたものを転送してもいいだろうし、部屋のPCでマウスなりタブレットを使ってドローorレタッチ系のツールで描いたものをアップロードしてもいいし、web上にあるお絵描き掲示板サービスを利用するのもありだろう。
絵日記は、ただそれだけでユニークな(独特の)日記ということで、ふつうにテキストでやっている日記のページよりもはるかに大きなアドバンテージを持っているとおもう。文面としてまったく同じ内容がふたつ以上の絵日記サイトに描かれていたとしても、そこに上がってくる日記は必ずどれも独特の異なった内容となるからだ。だって、筆跡違うからね。
それは基礎的な個性とでもいうべきもので、そうした個性の感じられるweb日記を眺めるのは当然楽しい。無個性な日記は似たようなものの中から1日1つでも見れば十分(つまり最悪自分の日記を1日1回書けば十分ということだ)だが、それが他人の個性から出たものだと一目でわかる日記なら、ひとつ見るだけでも楽しいし、いくつもよこに並べて眺めて過ごしてもそれぞれに楽しい。あーこんなにたくさん同時性の中にある人間が居てそれぞれに発信しているありさまであることよ、という。

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ここで書いている絵日記というものにはつまり、「絵」が含まれていなくても構わないということだ。絵日記においてはテキスト、つまり「字」もグラフィカルなものとして表現されるので、字日記であろうとそれは絵日記であるのと変わらない。ただでさえ日本の漫画文化は記号の解釈能を培うので、そこから逆算しておれは手書きの字日記を絵日記的に読むことができるだろう。ポイントで1こや2こくらい絵だか字だかその中間だかわからないようなものがあっても構わないし、途中から絵になったり字になったりするのもOKだし、すみっこのあたりに適当に描いてあるような、ふつうのテキスト日記であればなんの意味も持たない装飾のようなものでもそれが意味を持つ。
手で描けばなにもかもいっしょくたにできるのだ。現在ふつうにあるような、「これは表題」「これは本文」「これは画像」「これは日付」みたいなコンテンツの取り扱いに関する区別が曖昧っていうか、それをする必要がない。ごちゃごちゃ。ロウとカオスのうちの後者。人間は前者でもあり後者でもある。

自分しか持っていないものをあたりまえに出すという絵日記の単純な魅力。そういえば人間にはこんなこともできたんだよな、なんでいままでやってなかったんだろ、それはやっぱりまだまだPCでできることが限られていて、そして用意された機能に関して一面的にその使い方が普及していった(普及された)経緯があるからだろうけど、今後パワーも帯域も上がっていけば、より自然で当然で単純の発信が増えていったりもするんだろうか。とか。

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余談になるが、現在でも手書き絵(字)日記は俳優のひととか歌手のひととかのページなどではそれなりに見ることができるような気がする(そういうページは大抵更新頻度が低いので「日記」というほど頻繁な更新はないけど)。たとえば窪塚洋介氏のメッセージのページなどもそう。テキストは心っていうのか思考とか思想とか、部位でいうと脳みそからそれが文章として表現されるまでの過程にある微妙なノイズやニュアンスをまとめてキャンセルする性質があるので、たぶんそういう「画一化」や「透明化」に対する感性を、表現活動をやっているようなひとは強めに持っているんだろうなと思う。

手書きってことはその字を書いたペンがあり、それを握っている指があり、手があり、手首があり、ひじが、腕が、肩があって、そうやって五体にひろがり、つまるところ字は肉体を保障する。役者や歌手は精神をもって表現しているわけではなくてその肉をもって表現する商売なわけだから、自分のその「肉体感」みたいなものは、ふつうのひとより大事にする傾向が強いんじゃないだろうか。この脳みそあってのおれではあるがそのこの五体でそれを表明してこそのおれでもあるぞ、みたいな。
それはリアリズムというものだ。普通のひとに言い換えれば「結婚の報告とか親族の挨拶とか、大切な気持ちはやっぱり手紙や肉声で」みたいなのと通じる。そういうのを日常化させた状態と言えるのかもしれない。精神と時の部屋で1年間スーパーサイヤ人続けたのでおれの感性は最強に強まってます!とか。なんだか書いててよくわからなくなってきた。

まあしかし、そんな特殊な商売をやってるひとの日記だけじゃなくてあたりまえに普通の商売やって生きてるひとの日記もおれは読みたいから、感性を鋭化させずともみんな自然と絵(字)日記をポコポコ描いてアップロードしちまうよみたいな時代になってくれると楽しいと思う。

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でも絵(字)日記系のページってなかなか普及しないよな。なんでだ。思ったほどスキャナとかタブレットとかスタイラスとかそういった道具が普及していないのでPC上で手書きのデータを扱うっていうやりかたがまだまだ簡単じゃないっていうことなのか。というより自分の筆跡を(手書きである以上当然だけど)ネットで公開するっていうのがちょっと不安だーという部分も大きいのかな。「絵日記なら絵を描かなきゃいけない気分」ってのもでかいか、ふつう自分の絵に自信のあるひとはそう居ないだろうから、字より絵を出すほうを恥ずかしがる傾向ってのは確かにある。

あとは手で描くっていう習慣をPCを使うっていう習慣と同列に捉えることのできるひとが、いはゆる「絵描きのひと」以外には案外少ないっていうこともあるかもしれない。PCで、ネットでなにかやる場合、それは「キーボードで」というのがふつうな考えなのかもしれない。キーボードで手書きするってのは、確かにそれは発想が違う。テキストベーーーーース。

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絵(字)日記が普及するためには「絵(字)日記を更新するのが、テキストで日記を更新するのと同等かそれ以上に簡単になる」必要があるだろう。現在でもたぶんやりかたによっては既にキーボードとマウスでジャカジャカやってるよりサラサラ描いてガーっと処理してポチっとアップロードしたほうが速いみたいな方法はあると思う。
んー、おれ自身が「絵(字)日記のほうがいいや」と思うためにはどれくらいの環境が必要かな。

とかになるか。
基本的に現在ある仕組みを利用するだけでも可能なもののはずだけど、それをするために要求されるユーザ側の手間隙が忌避されてるかんじなので、そこんとこをうまい具合に削るために道具側が血と汗を流す必要があるようなっていうか。…そうなるために周辺に必要な環境とか機能とか考えてたら頭痛くなってきた。基本的にはMacromedia Flashから機能を減らしたり増やしたりすればけっこういいかんじの日記専用ツールみたいなんが出来上がる妄想だが…(Macromedia社がBLOGGER社(Google社?)相手に「てめぇらでっかい顧客に向けてWEBLOGとかかっこいいこといってるけど、こちとらはちんまい個人向けに絵日記だぜえ」みたいなかんじでサービスおっぱじめたらおもしろいかもと無責任に思ったりした)。
手間暇と金の問題に落ち着くか。とほほ。

あーあとたとえば、たぶん携帯端末で絵日記を読む気分にはなれないよな解像度の問題で。携帯端末でネット見るってのがどうにかなってるのはテキストが環境に合わせてどうにでも成形できるからだし。携帯メディアの表示技術が進化しない限り(それもなんかめちゃくちゃ革新的なやつ)、結局絵日記はデスクトップ固定の文化にしかないような気が。テキストは「コンピュータのうえにのっけて大量に流通させるもの的」なスマートな思想とか概念のかたまりだから、その利便性と絵日記の扱いづらさの格差はどうやったってでかい。だからこそ絵日記の「人間っぽい個性的」たる部分が光ってるわけだけども、ぬえー。

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で、さっきちょっと書いたけどBLOGっていうのが、これはけっこうこれから先いいんじゃないのみたいなかんじで徐々にひろがりつつあるかんじだけど、あれは絵日記と完全に逆の進化なわけだよな。というか絵(字)日記がほかのすべてのやりかたから逆行してるってだけか。
手書き絵(字)日記はこれまでにあったwebやコンピュータの進化の方向性に明らかに合わない種類のもので、単にそれらが十分以上に発達している現在があるためにそういう本来的ではなかった使い方をもする余地が生まれつつあるという話でしかないけど、BLOGというのは明らかに過去から現在に至るwebの方向性に適合して順当によさげな機能をのっけたひとつのかたちだ。

たとえばBLOGはRSSの適用によって、複数あるサイトの個別の記事群を外部から取りまとめたりするのが容易な点などがこの場合の利点として挙げられる(参考:ARTIFACTのこの記事この記事)。このあたりを活用すると専用のビューアとか作って閲覧者側で相当自由に操作できたりもするようだ。情報にある共通項を既存フォーマット上にのっけてしまうことでその内容の流通を容易にし、結果として価値ある情報がスムーズに共有化できるようになるというその仕組み。便利だ。ということは、的確だ。

でも絵日記はそれができない。共通化できるフォーマットなどない(編集ツールとかでオブジェクト単位とかで指定可能にすればできないことはないだろうけど…)というか、そういう共通化とは逆の思想にある魅力が絵日記を支えるのであろうから、むしろ「共通化しないことが自然」とも思える(ほんとに流行らせるためにはどこかで妥協が必要だろう)。
絵日記はBLOGどころでなく、現在ある多くのweb日記群よりもさらに退行する。web日記においてはそのコンテンツにおける「テキスト」「画像」すくなくともこの2つ、または「HTML」「CSS」この2つが区別されたが、絵日記のやり方はそうした区別を意に介さないだろう。極端にコンテンツの内容(のみ)を取り出して編集しで閲覧性を高めることのむずかしいメディア。

開放性と閉塞性にはそれぞれの魅力があるし、多数派が大勢を占めるのは当然としても少数派も自分で滅びを選ばない限りは生き延びるし小さくとも和やかで豊かなコミュニティだって作れるというのがネットの意味でもあると思うし、多数派と少数派は相互に干渉し影響しあうことでお互いを潤すこともできると思うので、それぞれのレベルと性格の多様なやりかたが繁栄すればそれが一番いいと思うんだけど。

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まあ絵日記に対してアンテナみたいなものを作る場合、既存のweb巡回収集ツールみたいなもので対応は可能だろう。たとえば「前回取得時から変更・追加のあった外部参照ファイル(画像など)のみを取得してきてプレビューを表示するアンテナ」とか。サーバに置く場合には容量とか帯域とか以外にもいろいろ問題があるかもしれないけど、活用法は対絵日記に限らない(あたりまえか)。「jpgとかpngやswfなどでの絵日記」、または「mpgやmovなどでの動画日記」、スタートレックオタやツインピークスオタなら一度は考えたことのあるだろう「wavやmp3、rmなどによる音声日記」など。

でも収集したそれらは結局「そのものを全部見ないことには意味を成さない」ものの集まりなので、そういうやりかたによっても扱いが容易とはならない。そりゃそうだ、手書きの絵(字)は人間の性のうち取り扱いの厄介な部類にある「個性」みたいな方向に特化しているわけだから、市場みたいにゴロゴロ並べて置いてみてもわからないし、意味がない。

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あーあとRSSで思い出した。CNET JAPANの「日本人にはBlogより日記」、はてなの人気に迫るという記事。
おれの中でのBLOGに対する抵抗感は、たぶんそれがRSSにのっかってるという点にも集約される気がする(ほかにもあるんだけどまあ。トピックの編集が容易な点とか。便利なんだけど、そんな便利な機能があるとそれはそれでちょっといやかなみたいなのとか)。おれは自分の中でルールを作ってそれを守ったり破ったりするのが好きだけど、世間のルールを多少改修して自分に対して適用するっていうのがあまり好きじゃない。結果を見れば両者はほとんど同じものになるはずだと思うんだけど、その導入から適用の過程に違和感を覚えてしまうのだ。これがガイジンと日本人の違いか。恥による自制装置と誇りによる自制装置の価値観差か。

でもたぶんアメリカ人とかでもRSSに対しておれの持ってるそれと似た抵抗感を感じるひとはまあそれなりには居るんじゃないかと、適当にっていうか気楽な気持ちで考えたりもしている。BLOGは、HTMLだろうとCSSだろうと更新だろうとRSSだろうと閲覧だろうと編集だろうと、書く側にも読む側にも様々にあるめんどくさそうなことを自動化して楽にやりましょうというものなんだから、たとえばRSSなんていう「なにそれ」みたいなのはサービスのついでにのっかってきたもので、そのことをユーザが導入時から自覚しておく必要がないからだ。
だからそのへんの仕組みに対して全然無自覚なまま自動的に、その仕組みに入っちゃったひとだって結構居るんじゃないかなとか。よくわかんないけどついてたからしばらく使ってみて、なんだこれ便利じゃん知らなかったよみたいな。一度使ってしまえばあとは便利さが先立つので抵抗感とかなんとか意識することもないわけで、なら案外改めて「RSSってどうよ?」と聞いてみたら「よくよく考えてみたらちょっとヤかもね」とか答えるひとも居るかもしれない。程度の考え。

実にまったくどうでもいい。

8:27 2003/04/19

なぜパンツをはいてないか

パンツをはいていない女子を描く場合、その女子はどんなポーズ・どんなアングルで描いたとしても絶対にパンチラしない。そもそもはいてないから。だから「パンツが見えるとエッチくさくてダメ」といった規制などに対してそういう女子絵は常にクリアだ。パンツをはかせるより、パンツをはかせないほうが安全なのだ。
という前提を踏まえて駒都えーじ氏にパンチラ女子絵を描いてもらうためには「パンチラしている絵を描いてください」と指定するのが唯一完全な方法だろう。とMさんが分析していたのを、なぜか今思い出した。さっきふとジャイアントロボのあらすじとかを思い出そうとしていて、そこから「ジャイアントロボ→銀鈴はパンチラしない(設定にそういう指示があった)→パンチラ絵→パンツはいてない」と連想したのかもしれない。

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そういえばあまり縁はなかったけど大学の同期で「俺、試験とか面接とかすごく苦手なんですよ。緊張しちゃって。で、考えたんですけど、就職試験とか面接とかの会場に、パンツはかずに行くんですよ。じゃなかったら会場のトイレで脱ぐ。もうスーツ直穿きで。ちんことか違和感ありまくり。スースーするんです。でもそしたら結構落ち着けましたよ。いや落ち着いたっていうか、俺はこんな馬鹿なことやってんだみたいな変な自信っていうか、ほかのこととかもうどうでもよくなっちゃって、ははは」とか言ってたひとが居たな。
それ以来就職活動やってるっぽい大学生のひとを街で見かけるたび「この中の何人かは今パンツはいてないかもしれないなあ」とか考えるようになってしまって、ちょっと笑える。さすがに説明会とか見学程度なら、まだパンツ脱ぐほどではなかろうけども。

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頭が痛い。はやく朝になればいい。

3:29 2003/04/19

日々

タチの悪い風邪をひいてしまっているようだ。
熱があり、頭痛がして、吐き気がして、めまいがして、寒気がして、暑苦しい。景色が四六時中反時計回りにぐるぐる回る。
今週はあついのかさむいのか見極められなかったから、うかつというかやはりというか。そうか、なるほどくんだ。

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はやくネットで注文して端末からカツ丼がダウンロードできる時代になってくれないかな。
課金版レプリケータみたいなの。べつに課金してくれなくていいけど一消費者の希望としては。そうでもならない限り、おれにとってネットが不可欠のメディアであると信じることはむずかしいだろう。

ネットが消え去ってもおれは死なない。それはもう間違いなく確固として死なない。ネットが消え去ることで不便になって、その結果としておれの死が早まることはありうるかもしれないけど、そこにある死因はネット以外の方法でひととつながっていく技術の未熟さにこそ求められるから、やっぱりおれはネットが消えることで死ぬわけじゃない。

おれの心臓はおれの筋肉によって鼓動しているし、それはネットに接続されていない。おれの脳に血液を送っているのは心臓で、そのトラフィックはネットと関係がない。

2:21 2003/04/19

似非ゲームブックファイナルクエスト

どうにかこうにかはてなダイアリを活用して快適インターネットライフを満喫できないものかと暗中模索してるんだけど、やっぱりうまそうなアイディアが出ないので、むかし適当につくってみたゲームブック(みたいなもの)「ファイナルクエスト」をはてなダイアリの0000年1月あたりの領域に移植してみた。

構想2分(当時住んでた家の屋根のうえに寝っころがって煙草吸いながら)!制作40分(確かそんなもん)!総パラグラフ数20(数えてみた)!空前のスケールで送る超大作(うそ)!とか、80年代でひととおり滅んだような煽り文句とか並べてみました。1分くらい遊べるかも。

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ああ、しかし、これって自分の「日記」じゃなくて創作になるような気がするので、はてなダイアリの規定に違反しちゃうかなあ。

4:58 2003/04/18

そろそろ意味のわからなくなった書きなぐりの吐き出し

忘れて構わないようなことをわざわざ忘れることもないからという理由で残しておくのも日記に期待する機能のひとつだから。あくまでメモなので冒頭とか中間とか結論とかをすっ飛ばして書いており、無茶な飛躍があったりするし、正しくないことや明らかに誤っている情報も含まれる。

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「金で買えないものはない」「金で買えないものはある」、一見相反するようだが矛盾はしていない。「(自分は)ひとから買いたいものがたくさんある」「(自分は)ひとに売りたくないものも持っている」ということで、買う側の自分と売る側の自分それぞれ別個の視点に基づいているわけだから、言葉上で逆の意味になっているように感じるだけ。立場の違いで、シーンの違いではない。

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うぐいすばりとストラディヴァリって似てるよなと3秒ほど思ってみたがさすがに恥ずかしくなったので忘れたいということをメモ。ていどひくい。

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「いい話にして忘れたい」の願望。物語にして煩わしさを捨てる。

いい話ほどよく眠れて、しかも簡単に忘れることができるから。
ただそれを省みないだけでなく「HDDには保存しておく」という行為によってより脳内から消える時間は短くなるのかも。
2ch発のflashにぽつぽつ見られる他人への安易な感謝、ポーズ。自分の近所のちょっといい話を感動的にラッピングしてみせる感性。明らかに意図的なテンプレ化が為された(ただし主体は存在しない)演出。記号的、ということはこれはエロ業界的な手ごろな構造をもった感動装置と判断できる。そこにある魂胆は「さくっと感動しておいてさっさと忘れる」みたいな消費感覚?一種の集団オナニーであるのは間違いないはず。一杯のかけそばリターンズ?
かれらは自身のそういう行動を数年後には間違いなくはずかしい記憶として回顧することになるが、それがあったこと自体忘れることができれば刹那的ないい気分だけを享受可能と理解し、そのように行動している?

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一度エロゲーで感動してしまったひとは、その後エロゲーを(主により困難な状況において)すくなくとも脳内で肯定し続けなければならなくなるという業を負う、本人自身が「自分はエロゲーで感動したことがある」という事実を消費するまでの間は。たぶんそういう過程を経ることによってもオタは作品を消費するという行為に慣れていくので、エロゲオタは自分自身の大量消費をあまり省みない性質を一般的に持っているだろう。

「Kanon」当時、Keyオフィシャル掲示板であばれまくっていたあのへんのひとたちが、現在どんな道を歩んでいるかが知りたい。「沢渡真琴は我が命、我が全て!!永遠の愛を誓う漢・狗法使い、ここにあり!!!!」という発言をしていたひとなど。現在のかれらにとってあの時間は笑って話せる思い出だろうか、それともまだ回顧の難しい暗部だろうか、それとも、まだかれらは永遠の世界に生きているだろうか。

もちろん個々人、またその状況によって「永遠」の時間はまちまちだ。一瞬、刹那、1イント、3.4秒、3日、一週間、10年、死ぬまで、いろいろある。そんなことはわかっているが、下衆なおれはやはり自分が他人のそれに興味を持っていること自体は否定することができない。

(参考:狗法使い氏のその後の情報

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自分が苦しいんだから相手も苦しいにちがいないという一種の期待によって頑張れる局面はあるが、自分が悲しいんだから相手も悲しいにちがいないという考え方は共感の押しつけに過ぎないので失敗する。

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正義と悪の構図の中には、すくなくとも

以上6種類の立場が存在し、それぞれ特性が異なるので、これらを混同して考えるのは雑。

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山手線散歩コースは一周34.5km

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悟りというのは論理などで説明していたら何時間も何年も何十年もかかってしまうような境地にいきなり到達する技術、いうなれば「突然の理解」のことと考えてみたので、だとするならたとえば坊さんなどは普段俗にあくせく働いたり考えたりしているおれとかよりもよっぽど効率への欲求が強いとも言えるのかもしれないなあ。
ふつうのやりかただと死ぬまでかかってもどうにもできないかもしれないから、かったるくてやってらんねえから、それ以外の方法を模索しているわけだしな。静かに見えるが、実はあれこそせっかちなのかもしれないわけか?

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ズームとフォーカスは、たぶん一瞬でも速く正確に目標を殺傷するためにこそ最も必要とされる技術だろう。

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でかすぎXBOX

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バキ日記。トーナメント当時の盛り上がりとかよく伝わってきておもしろい。

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夜空は安心したい願望とドキドキしたい願望を同時に充たすエンタテインメントだろう。
月見と天体観測は同じことをやっていると思う。

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あー、すっきり消えて気分がいい。寝る。

2:08 2003/04/18

日々

今日は一日中考えたり妄想したり結論を出したりすることがなかった。疲れきって頭がすっからかんになっているとかそういうのではなくて、まるで頭蓋骨の中に砂袋が詰まってるようなかんじで一滴も出ず、一滴も染み込まなかった。ここ数年なかったことだ。このおれにしてこんな日もあるか。前触れもなく唐突に。

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アート引越しセンターのコンテナにペイントされている、あの赤丸しっぽをピンと立てて尻を突き出しているドラえもんはおれを誘っているようにしか見えない。

↑これ、おれの対二次元エロ解釈能が成長したっていうことか、それとも単に歳食ってエロ脳そのものがボトムアップしたっていうことか、どっちだろうな。どっちもかな。世間はだんだん二次元の広告に馴染んで来ているはずだし、広告っていうのは、エロのことなので、世間同様におれも二次元のエロに対して反応しやすくなってきているはずだ。殊にオタ周辺の情報を漁っていれば必然的にそうもなる。

そういえばドラちゃんのあの手は対象物にあわせて感触や温度、摩擦係数などを自在に制御できるようなので、あの手にはさんでもらってオナニー(っていうのか)すれば誰でもが自分に完全にフィットした、この世のものとも思えない極上のオナニーを体験できるに違いないみたいな話を、大学の頃だれかとやったような気がする。ていうかあの手に使われてるテクノロジは当初そういう目的で開発されたんじゃないのかとかそういう。

頭に砂袋詰まってても猥談にだけは頭がまわるな。

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最近っていうわけでもないけど街中を歩いていて喧騒が耳に入らない。音としては聞いてるんだけどその内容をほとんど最初から理解しようとしなくなっている。単に周囲に日本人以外の会話が混じることがおおくなったので、めんどくさいから聞くこともなく流しておこうっていうようなフィルタを無意識にかませているっていう部分も当然あるだろうが、それだけじゃなくやっぱり外からの刺激をキャンセルする仕組みの精度がちょっと上がりすぎているかんじがする。

あれかな、デザイナとかそのへんの職業のひとは、だいたい30±2歳くらいの頃に一度インプットとアウトプットのバランスが崩れて(勉強を疎かにしがちなるということ)センスが悪くなる時期があるというけど、おれもそういうかんじの時期に入りつつあるっていうことかな。

面と向かった他人から話を聞くのはあたりまえだが面と向かった話だけからしか情報を得ない状態が続けば自分の中のリアリティと世間のリアリティはどんどんズレていく。現実はクリアなものもノイジーなものも混在していて、それらは大胆に変わることこそ少ないが毎日ちょっとずつ変わっていく。微細な流れを追うためにはノイズを拾って流れに乗るのが適当だ。
おれは喧騒から学ぶことを最近疎かにしている気がする。まあでもおれがそういう時期に入っているというなら、そういう状態をちゃんと通過しておくのも悪くないとも思うから、どうしたほうがいいかはもうちょっと考えてから決めよう。

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ああ、そろそろ5月だから5月病の用意をしておかないといけない気がしたんだった。
さあ、かかるぜ五月病!無気力!仕事やめたい!みたいなの。ごがつびょお。ゴールデンウィークっていうと一枚だけある金色のウロコが弱点だ、みたいな。でもむかしから準備とか用意とか嫌いっていうかめんどくさいから、全然やらないひとだったなおれは。これはもう直らない性分にできたと思う。いまさらマメな人間にはならないっていうかなれないだろう。ということはこの性格に関しては、そろそろ自分のものだと主張してもいい頃だな。

22:19 2003/04/17

機械vs人類

頭が痛くて寝れないので起きていることにした。

今週から来週くらいまでおれは特になにを買った覚えもないのに超ドレッドノート級に金がなくて正直言ってちょっとやばいんだけど、さっき自販機でジュース買ったらおつりの880円をまとめて下水溝のすきまに落としてしまって目先が真っ暗になった。もともと暗かったけど。夜だし。

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STGを板垣恵介氏風にカテゴライズするなら、たとえばKONAMI「グラディウス」やTREASUREのレイシルとか斑鳩とかあのへんは中国拳法のようなSTGと言うことができる。一見して絶望的に見える難度も、基礎の学習と練習による応用、総合的な技術の修練によっていずれ当たり前にクリアできるようになり、才覚がなくともノーコンティニュークリアへの道は必ず開けるようになっている。弱い者でもあきらめずに頑張ればいずれ強さを得ることのできる学問。才覚があるならさらにそこから先へも至ることができるだろう。
そういうゲームには確かな希望がある。希望のあるゲームは、楽しい。簡単じゃないが、簡単じゃないからこそ獲得できたときの喜びもひとしおだ。

ではcave「怒首領蜂 大往生」はどうか。あれはたぶん極真空手のようなSTGだと思う。もちろん強くなるためには学習や修練が必要だが、しかしそうした投資をクリアへとつなげられるのは「もともと強い者」に限られる。弱い者も頑張れば戦闘の空気を吸うことができるが、しかし本質的には強い者が最強を得るためのステージとして、それはあるように感じる。率直な、自然の掟がそこにはある。
こうしたゲームには価値観を巡る論争が生まれやすい。つまり「クリアすることが楽しいのか、プレイするだけで十分なのか」。おそらく大往生に投資する多くのひとたちの中で、自力でエンディング(2周ED)を拝める人間はそう多くない。クリアできなくとも楽しむことはできるだろう。刹那の緊張と弛緩の連続だ、それは楽しい。とはいえ一方でクリアすることでも楽しんでいる人間が居る。ジレンマが生まれる。しかしそこに働く論理はきわめてシンプルだ。クリアできるのは、強いから。

そしてこういうシンプルさには確かな魅力がある。クリアできる才覚の有無が容赦なく克明に示される。ふつうこれほどわかりやすく現実をみせつけてくれる状況は滅多にあるものじゃない。なんというわかりやすさ。だから大往生は楽しい。楽しいゲームは、いいゲームと言い得る。

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で、そこで100円玉のはなしだ。
おれが斑鳩にコインいっこいれるとき、その100円玉の向こうにいずれ斑鳩をワンコインクリアするおれを思い描くので、コインは完全におれのために投入するのだが、おれが大往生に100円を投入するときその内訳は単純ではないだろうと自分で思う。
おれは最初から大往生をワンコインクリアする自分を想定していない。

おれはこのゲームをクリアできない。しかしおれじゃない別の誰かがクリアするだろう。だからこの100円玉は、その「おれじゃない誰かのクリアのため」のものでもあるような気がする。おれはだめだった、おれの動体視力や反射神経のMAXや平均値じゃ逆立ちしたって追いつかない、そういうのは年齢でも落ちていくし、あきらめた、しかし、どこの誰とも知らんし興味もないが、おまえにならおれにできないことがやれるだろう、べつに応援するつもりもないし結局100円玉は自分のプレイのためにしか投入しないわけだが、こいつにいずれ勝ってみせろ人類、みたいな気分。

おれvs大往生という構図の中にはおれの死と敗北(との経過と結果の快楽)しか存在しないが、「おれじゃない誰か」を含めてしまえば(結局おれは死んで敗北するので直接関係を持つことができないにせよ)一応その構図の中にクリアという単語を含めることはできる、と分析できるので、んじゃおれはそんな代償行為までしてクリアへの願望を捨てきれないのかみたいな話ということであり、それっていうのは「ともだちのハッカーが」みたいな話と仕組みが一緒なので相当にうすら寒いんだけど、なんていうか一応積極性の感触はあるんだよな。

なんだろうな。賽銭でも投げてるような気分とかが近いのかな。

それとも、すごい勝負の場に立ち会いたいという無責任な参加意識なのかなあ。たとえばK-1のチケットとかは、ふつう「自分が戦うため」に買うわけじゃなくて「すごい連中の勝負をその目で見る」ために買うわけだけど、それと同じようなもの?いずれ未曾有の決戦が繰り広げられることになるはずの、大往生という戦場の空気を吸う権利、100円ぶん。
…厚みのないゲームジャンルにスタープレイヤーっていう考え方を導入すると寿命が短くなりがちな気がするので、それはそれでやばい気がする。

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似たような話だが大往生の攻略DVDを見ているとき、なんとなく人工知能vs人間のチェス対戦をながめているような気分になった。今後もcaveが同じような方向性のゲームを作りその攻略DVDが作られるなら、今後もそういう気分で鑑賞に臨むだろう。「また機械vs人類の最終決戦がやって来ましたねえ」「今回はどうでしょうか?人類、勝てますかね」「いやー今度の瞬殺無音緋蜂はもう完全に狂ってますからね。気化爆弾で弾幕とか張られたら絶対死にますし。いくらなんでも勝てないでしょう。私は次回作での勝利に期待しておきますよ」みたいな。
このとき人間が絶対にクリアできないようなSTGを用意するのは簡単だが、しかしそれが一般的なSTGの範疇にあるゲームとして成立するためには「最低限全人類のうち一人くらいはクリアできるかもしれない」程度の難度に収まっている必要があるので、人類の勝率は絶対に0%までは落ちないよう調整されているはずだ。

そういう意味で、まあ人類はどれだけ敗北を重ねても大丈夫のはずだとは思っている。基準は人間の側にあるからだ。

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ところで大往生、DVDでエンディング見たけど、あれはやっぱしゲームセンターあらしへのオマージュなのだろうか

4:21 2003/04/17

ふわふわ

N64にはサウスパークのfpsがあったらしい。あーいっちょんしらんかったばい。

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忘れていたちょっとまえのURLメモ。

「逆転裁判」のシナリオ関連で、ゲーム文中でやたらと「。」が多用されていたのを見てなんとなく文章書き関連のTIPSとかないのかなと探していたときのメモ(といっても内容は全然関係ない)。逆転裁判の場合16字2行だからどうやっても短文で切る必要があるけど、それでもわざわざ「。」で止める必要はないんじゃないかという場面(会話の途中に入るクリック待ちなど)が結構あるんだよな。「必要だからそうした」という意識が先だったか、それとも条件下でシナリオを書いているうちに自然についた手癖だったのか、どっちかなあとか漠然と考えていた覚えがある、当時。

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曖昧にふわふわした雑考関係ふたつメモ。

ひとは「考え方」という考えを持たなくてもものを考えることはできると思うけど、自分の考えをひとに説明するためには、自分自身の考え方を自覚する必要がある。それはたとえば成文化や成図化の意識だ。逆に言えばなにかすごいことを思いついたとしても、ひとはそれを手段によって表現できないかぎり他人に伝えることができない。そのひとの脳みそに埋もれたり、脳自体が死んだりすればそれでおしまい、失われる(テレパスなら別かもしれないが)。

もちろんそういうものは、どんどん失われて構わないと思っている。
確かにそれはもったいないことではあるとも思うけど、おれは「もったいない状態」の存在自体は肯定するからだ。

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それはそれとして他人に自分の真意を伝えるのはむずかしい。簡単明瞭に説明すればいいはずだしそれは技術的にはむずかしくないはずのものなんだけど、それが案外できなかったりする。文化と本能の向かうところは必ずしも一致しないという一例のような気がする。あるいは人間にある「情報に価値をつける」という性質の話かもしれない。安売りをしてしまうと簡単に消費されてしまうのではないかという怖れから、多少汲み取りを難解にして価値感を付加して、つまり高く売りつけようという姿勢を取りがちだという話かもしれない。相手の度量と情報の価値を疑わないならどんな安値で叩き売っても大丈夫との確信をも持てるはずだが、むずかしい。怖れと戦うのは簡単ではないからだ。
社交でも雑談でも恋愛でも、情報そのものだけでなくその駆け引きを楽しむ性質は確かにある。

で、その「自分の真意」っていうものに関して、これが相手に伝わったら間違いなくうれしい気分になるけど、しかしおれは必ずしもそのうれしさは大事ではないような気がしている。あればいいけどなくてもいいはずっていうか、確かにその部分の成功によって得られる気分は上々なんだけどだからといって、自分の真意というものに極端に価値を偏重させるのは正常とは思えない。
普段自分の真意と意識しているものは、自分の発する情報系における自分自身の視点の置き場、または迷路のスタート、もしくは迷路のゴールのようなものと説明できると思う。それは人間が情報に対して自我を置く限り必ず発生する共通点といえるだろう。しかし、共通してるからといって、だからなんだというんだ。

「真意」のタグをつけようとつけるまいと、発する情報は自分の像が生み落とした影であるのに違いない。それらは客観的に同列のひとつひとつ(または溶け合って分離できないひとつ)に過ぎない、そのうちの奥まった一点が解釈されるかされないかに注目し一喜一憂するのは馬鹿げているのではないか。主体的な文章において真意を込めることを疎かにするのは確かに不幸だが、伝えることと伝わることを重ねて捉えてしあわせを見出していくのは、なんだか空しい。
戦争映画で主人公一人が生き残るか死ぬかに一喜一憂するさまにも似ている。そいつひとりの生き死にとは別に周囲ではそれよりはるかに多くの情報の生死が展開している。まわりの兵隊は皆死んだけど主人公さえ生き残ったらハッピーか?まわりの兵隊は皆生き残ったのに主人公が死んでしまったら悲しいか?なんていうか真意以外の連中ってどうやっても浮かばれない存在だな。生きても死んでも花か雨。

まあ、そうだな。そういうもんだしな。んー。

1:59 2003/04/17

MD版 戦斧 GOLDEN AXE 攻略の手引き

こうすれば楽に戦えるというメモ。
すごく昔の記憶からの思い出し書きなので適当。

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  1. 当然の前置き
    このゲームは人間相手の対戦格闘ではない。敵は血も心も通わぬコンピュータ。機械との戦闘はフェアプレイや正々堂々などといった邪魔な感情を排することからはじまる。敵はすべてハメ殺す。くらってもよいダメージなどない。安全な勝利こそ至上の正義。常に一歩うしろ斜めで待つ精神。
  2. MD版はAC版とはかなりバランスが違う。別物と考えたほうが早い。
  3. GOLDEN AXEは1作目に限っていえば、AC版よりMD版のほうがおもしろいと思う。
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基本編

  1. 特にポリシーがなければキャラクタは緑服のヒゲを選んでおけ
    一番強いしかっこいい。魔法は弱いけどかわりに何度も使えるのでむしろ強み。
  2. 縦にフラフラ動け
    • 横の軸が合うとお互いの攻撃が届く。先手が勝つので自分からは行かず有利な位置で誘い込むかんじにすると安全。
    • 敵は軸が合った時点でダッシュ→タックル攻撃をしてくるのでそれを避ける意味もある。
    • 特に相手を一度ダウンさせたら、必ず軸はズラしておくべし。でないと不意の反撃を食らう。
  3. 乗り物には乗るな
    乗らないのが基本。一見強くなったように感じるが攻撃後の硬直が長いので乱戦時のリスクが大きい。ただし2人プレイ時ならうまくフォローしあって活用することもできる。特に赤ドラゴン(ファイアボールを吐くやつ)なら有効。
  4. タックルは有効
    当てれば敵を必ずダウンさせるので反撃を受けるリスクが低い。乱戦に突入しかけた時の仕切りなおしなどでも有効。逆にタックルは空振りすると危険ともいえるので、タックルを使うときは必ず当てること
    特に軍人系(鎧キャラ)などはすべてタックルで安定する。画面外に吹っ飛ばして、画面にちょっと入ったらまたタックルの繰り返しで安全に殺せる。慣れれば画面左右端にむけて交互にタックルを繰り返すなど2正面作戦も簡単。
  5. 崖はすべてタックルで渡れ
    ジャンプより飛距離があるので安全。むしろジャンプで渡ってると失敗して落ちることがある。
  6. 泥棒への対処
    道中やボーナスステージで出現する泥棒はチョロチョロ動き回って厄介だが、一度攻撃を当てたあとすぐにタックルを当て続けることで安定して身ぐるみを剥がせる。2人プレイなどの場合には左右から挟み込むこうにしておいて交互にキックすればリズミカルに搾り取ることも可能(これを「餅つき」という)。
    なお、ずっとほっといたら勝手にいなくなるので崖などを挟んでむづかしい位置に出現した場合などには無理して蹴りにいかず無視するのも策(初心者向け)。
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応用編

  1. ちょっとずつ進め
    右方向へ進むことで敵は出現するが、ちょっとずつ進んでいると敵の出現を分割できる場面がある。なるべく少人数単位で相手にするよう心がけているとゲームを楽に進められる。
  2. 止まってる敵は一人ずつ殺せ
    1面のはけおやじボスや2面のアマゾネスなど、画面に出現してもしばらく止まってる敵コンビなどが居る。こいつらは(こちらから攻撃を仕掛けなければ)一定の条件が充たされるまで止まったままだが、逆に止まってるうちに一人にだけ攻撃を叩き込んでおいて安全に1コンボぶん(または唐竹割り1回ぶん)体力を削っておくのもアリ。状況を見極めて使いこなしていこう。
  3. 乗り物はエサに使え
    敵は画面中に待機状態の乗り物キャラが居るとそこにフラフラ無防備に近寄っていく習性があるので、ほとんど重なるような位置で待ち受けてハメ殺し安定。
  4. スケルトンウォーリアは最強の兵
    乗り物に興味がない、攻撃幅がひろい、こちらのジャンプ斬りを叩き落す、コンボに割り込んで反撃してくる、素早いタックル、脳天唐竹割りまで使ってくるなど、とにかく厄介な相手(骸骨だけにホネのある連中だ)。しかしそんなヤツでもきちんとハメれば必ず無傷で仕留められる(骸骨だけにコツが要るが)。
  5. 落とせる場所では落として殺せ
    タックルで墜死させるのが最もクレバーな戦い方。崖のある場面で相手の体力を馬鹿正直に全部削るなど愚の骨頂。フラフラ軸ずらしとダッシュを駆使して敵を崖側に誘い込み、落とせ。崖は画面がスクロールして消えたあとでもけっこう残っているので、そっち方向に吹っ飛ばせば大抵画面外から断末魔の叫びがきこえてくる。
    あと2面冒頭で出てくる敵は、出現時に軸を合わせていればタックルをしかけてくるので、そこで軸をずらせば勝手に落ちて死ぬ(よけるのに失敗すると自分が落ちることもあるので注意)。
  6. 城門前の泥棒活用
    ラスト近くの城門前、青泥棒が出てきて魔法薬取りほいだいになるが、たぶんこの時点でストックは足りてると思うのでむしるだけむしったらそれをなるべく画面中に残しておく。で、ボスが出たらとりあえず魔法。で、フィールドに残ってる魔法薬を回収。戦いを余裕をもってすすめられる。
  7. 脳天唐竹割りを極めろ
    ダッシュジャンプ後攻撃押しっぱなしで出る降下攻撃、これを「脳天唐竹割り」という。命中すれば非常に大きなダメージを与えられるので有効だが活用には馴れが必要。敵とちょうど軸が合うタイミングに落ちてくるよう調整すればいいので、序盤で雑魚相手に勘を掴んでおくとよい。敵のダウン後の起き上がりに重ねるというテクもある。
    また、なかなか軸を合わせてくれない敵(骸骨など)は画面の上下端に誘い込むと当てやすい。
  8. 骸骨兵限定ハメ地点
    亀の甲羅面、上の段をノコノコ歩いてくる骸骨兵を下の段の縁で待ち受けて攻撃連打をしていると、たまにうまい具合にハマってくれて死ぬまで永久コンボ状態になることがある。ポイントを覚えれば安定するのでこの方法で確実に1体は無傷で始末可能。
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デスアダー編

  1. そのいち
    護衛の骸骨兵は不死身。デスアダーよりはるかに厄介な相手なので連中は適当にあしらいつつデスアダーだけを本気で狙え。2人プレイなら担当を分けて「骸骨誘導係」「デスアダー始末係」で対応するとやりやすい。
  2. そのに
    デスアダーはこちらがダウンすると追い打ちの魔法を使ってくる。このダメージの累積が厄介なので、ラスボス戦はとにかく敵につかまらないことが重要。確実な時以外は、逃げろ。
  3. そのさん
    デスアダーを殺したとき、やつはスローモーションで宙に舞う。このとき魔法を使うと魔法のダメージでさらに上昇する。2人プレイで大魔法を2連発とかすれば画面外(上)まで吹っ飛ばすことができるぞ。魔法のストックが残っていないとできないので、これはヴェテランチームならではのパフォーマンスといえる。
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ほかにもいろいろあった気がするけどいまいち思い出せない。頭っていうか指で覚えてるものなのでこういうのは。

22:23 2003/04/16

GBA / GOLDEN AXE / THQ

GBA用のゴールデンアックスを遊んでいる。
メガドラ版の1の移植で、当然海外ものだがバッタモンではなく正規のライセンス商品だ(このROMにはほかに2本ばかりセガゲーが入ってるのだが、おれはアックス以外眼中にない)。おかげで起動してからしばらくロゴだのライセンス表記だのスキップできない画面をしばらく眺めることになるが、まあアックスを遊ぶためだ、耐えられる。

写真

今、万感の想いを胸に任天堂携帯機のフロントライト液晶になつかしいセガロゴが表示されるのを眺めたりする。

で、移植度のほうだが、持っておいてそんはないと思うものの正直満腹にはなれなかった。
操作感とかは悪くないっていうかMD版そのままだしグラフィックもMDのものを流用してるから間合いなどばっちりで、気持ちよく悪党どもを殴殺できるのだがいかんせんボリューム感が足りない。音源まではエミュレーションできなかったらしくどうもwav垂れ流しっぽいし、そもそもBGMの種類が少なくゲーム中ずっと1面のものを流用している。敵もひととおりは出るし面も最後まできちんと入っているが一部演出がカット(ていうかコンバートかけた時点でうまく反映されてないっぽい)されてるかんじだし、あと戦闘の迫力やスケール感が不足気味。

おれのギリウスはデスアダーごとき楽勝でぶち殺す予定だったのだがなぜか多少苦戦しつつまずはさくっとクリアしてみて、なにかが足りないっていうかどこおかしいんだよなと思って見直してみたら、ああそうだ解像度だ。あたりまえだ。メガドラは320x224pixelだけどGBAは240x160pixelしかない。図で説明すると、これくらい違う。

画像

解像度は低くなってるのに同じ素材使ってるから、同時に画面に表示できるフィールドのひろさがかなり狭まっている。どうりでスケルトンから逃げ回るのに苦労すると思ったっていうか、敵が頻繁に画面外からタックルをしかけてきてたってことはこれ判定自体はMD版のままで単に表示が切れてるだけだな。

まあそれはそれで楽しみようはあるので、いいとしておく。「THE DUEL」(おれ内名称「運動会モード」)とかでちまちま殴殺してるぶんに不自由はないし。我慢できなくなったらWS版を本体ごと買ってみるというのもいいか。その頃まで残ってればだけど、ワンダースワンのソフトやハードが。

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興が乗ったのでいくつかのゲーム機の解像度の比較図をつくってみた。
ネットでひろったデータに手を加えただけなので数値に一切の保証はなし。検証もなし。大雑把につかめればそれでいいかな的なもの。
蛇足ながら、当然(携帯機以外は)どの解像度だろうと基本的に同じTVに映るものなので本来大きさは違わない。モニタのおおきさじゃなく画像の密度のほうにスケールを合わせたらこうなるというかんじか。まあD4出力ができるTVは、まだ多くはないかもしれないけど。

画像

とりあえずD4出力時のXBOXのでかさが笑える。GBAの画面が24こ入る計算か。

1:28 2003/04/16

Animation / OVERMAN キングゲイナー

キングゲイナーDVD1話を見た。

とりあえずあたまから。

あとだいたいのキャラクタは1話目から自分のポジションにストンと落ちてやるべきと思うことをこなしている感があり、その中で唯一アナ姫だけがひとりではしゃいでいるかんじで、ということはつまりあすこ(アナ姫のキャラクタ)にまず一発目の監督汁的なパワーを注入しておいて、そこに発生したゆらぎから本来流れるままに流れていくはずのストーリーに攪乱をかけ、キャラクタ同士を波にうねりにのっけてガッチャガッチャとぶつけあってユニークな(そのアニメがキングゲイナーである理由となる)ハーモニーをつくってくれたまいみたいな大枠の設計であるところの仕掛けであるかな?と思った。

世界ができてキャラが立ったらもうだいたい誰がどうなってなにがどうなるか自然の因果がまずは定まっていくものだが、そうなるはずのおはなしを「人間が作る」からゆらぎができてストーリーからドラマになる。立て板に水を流すだけならわざわざそれを書き記すには当たらない。キングゲイナーは存在する価値をつくるためにまず、波紋を一発ドッギャーンと注入する戦術をとったアニメに見えた。ふうむ。

おもしろかった。

EDのあの女の表情がすごくいい。ケツにくる緊張感だ。

22:33 2003/04/15

長年の疑問

それなりに長いことゲーオタをやってるけどまだまだ理解できていないものはいくつもある。 たとえば、

など。
単に「ああはなりたくない」っていうだけのおれ側の問題でもあるとは思うんだけど、それを差し引いてもあのへんの心理はなかなかに輪の外側からは理解のむずかしい問題のような気がする。あたまから突っ込んでみるのが手っ取り早いんだろうけど、それをやるにはおれの心理が邪魔だ。悩ましい。とりあえず自分が納得して(=安心して)おくためだけに手ごろな理屈を見繕うのは簡単だけど、そんなのはPARで無敵状態にして遊ぶアクションゲームなみにつまらない。

なんとか手を汚すことなく核心を取り出せないものかな。土台その考え方がいかんのか。
悟りを得たいと思う反面、俗に生きたいとも思うとは、ほんとどうしようもない。これぞ俗っていうものだ。

3:23 2003/04/15

>牛のいるゲームは良いゲーム:外山談

(「闘神伝」あたりの流れが脳内でこんがらがって、タカラとトミーをごっちゃにしていたので訂正)

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そういえば先週アソビットシティに行ったとき店頭でデモをやってたGC「NARUTO -ナルト- 激闘忍者対戦!」が、なんだか本格的でへええーと思ったんだった。
トゥーンシェードな3D格闘で、アクションが凝ってて展開もスピーディー、見ていて結構おもしろそう(プレイはしてない)。このタイトルは任天堂とトミーの提携で発表されたものだったから「あー、TAKARAか(←これは勘違いだった)。んー。そういえばタカラって英訳するとTREASUREと名前がかぶるよなべつに社名だから英訳する必要ないけど」程度にしか認識してなかったんだけど、目の前でグリグリ動いてる画面はどう見てもトミーの仕事とは思えないほど(失礼)ちゃんとゲームゲームしていた。

おかしいなと思ってたらアドバタイズでエイティングのロゴが出てるじゃないの。なるほど、発売はトミーだけど開発はエイティングなのね。ということは「BLOODY ROAR」チームあたりが作ってるのかなっていうかこれは外山雄一氏の最近の仕事だったりするのかな?
ここ最近GC版NARUTOの話題をネットで見かけてた理由がわかったような、勘違いなような。どっちでもいいけども。

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あと外山氏といえば「魔法大作戦」紹介ページで「牛のいるゲームは良いゲーム:外山談」との談話をインターネットでパブリッシュしておられるのを確認してなるほどさすが外山氏ほどのひとともなると言うことがちがうなあと感心した。言われてみればそうだ。「ハードドライビン」「アースワームジム」など、星の輝きを宿すステキゲームスにはみな牛がフィーチャーされている(「THE HORD」もだ)。
ただ牛が出ればいいってものでもないんだけど、しかし確かに牛にはなにかがある。

同人ゲーの世界にもいずれ牛の時代は来るかもな。いや遅すぎるか。少なくとも3年前に来なければならなかった。いやちがうか。自分のゲームに牛をフィーチャーできるほどの人材が同人ゲーム界に揃う日が来るか否かという問題なのかも。一流でなければ牛を使いこなすことなどできはしない。

一応後学のため牛の鳴き声を検索してみたら、けっこうあるな。ンモー。

1:48 2003/04/15

なぜだ!? 地獄と化したこの世界 救いの者の名を叫べ 梅・桃・桜

ARTIFACTの「魔法遣いに大切なことスタッフ話」で「魔法遣いに大切なことの主人公の名前は菊池ウメだったのが菊池ユメになった」という話を読んだが、もとのまま菊池ウメでも腑に落ちるところはあったんじゃないかなと思った。

過去にこういったかんじの春の花の名を冠した魔法少女の先駆があり、春の三並びといえば「ウメ・モモ・サクラ」なわけだからウメは残った最後のひとつだ。菊池ウメが菊池ユメにかわることがなければ、魔法遣いに大切なことは「小さく区切った枠内での変形創作的小品」としてきれいにはじまっておわることもできたのかもしれないなあと思ってみたが、そんなこと言ってみてもどうもこうもない。ウメならウメのはなし、ユメならユメのはなし。

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たぶん業界的にむつかしいところではあろうけども「アニメーションの意地悪」にはもうちょっとクレバーな発展を希望していきたいところだ。最近の制作者などへのインタビュー記事などでみられがちな「それでも現実を肯定してみせるかれらの姿勢」みたいなものには感心してもいるんだけど、誰がいつどういう意味での勝利を獲得するのかは問題として考えていかなければならないような気がする。

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余談。表題はKONAMI「月風魔伝」のキャッチコピーから取りましたが、べつに地獄と化てるわけではないにせよ魔法少女ものの世界設定ともだいたい合ってると思います。あとこのページ(MIDI鳴り注意)のBGMのなつかしさに感動した。

22:21 2003/04/14

日々

昨日。

99年リリースのPC用ADVエレクトリックシープ「天国から来た男」(Windows95/98対応)のシステムが興味深いとメールで教えてもらったのでちょっと買ってみようと思ったが、PC用のADVなんてものは売り時期を過ぎれば速攻在庫処分して二度と仕入れないみたいな印象があるのでまあみつからないかなあ対応機種にWindows95とか98とか書いてあるくらい昔のゲームだしなあそもそも買ったとしてXPでちゃんと動くのかいなとか思いつつアソビットシティに行ってみたら、あった。

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おおお!さすがアソビットシティの名に恥じぬ品揃えええええ、とちょっと感心した。
でもGBA版「V-Rally3」は置いてなかったよ。とほほ。

「天国から来た男」は、酒井 智巳氏というひとが一人で作ったゲーム(ゲームデザイン・キャラクタ・グラフィック・音楽・パッケージ・ジャケットアート・マニュアル)で、その「ひとりで作った感」といいゲームデザインの独特さといいx68kの系統のひとっぽいなあと思って、それと近い印象を持つ酒井氏といえば「海腹川背」のほうの酒井氏も居たような気がしたので一瞬同一人物かと疑ったけどちがうようだ。

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PCゲームの試遊ブースで、なんぞFPSでバンバンやってるこどもとかが居た。

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あの歳でFPSとかいう完成されたゲームシステムとかに触れてしまったら、どんなゲーム観ができあがるんだろうな。ミヤホンさんの子供たちな世代がかつてあったように、カーマック先生の子供たちも生まれ育ちつつあるのか。そんなこたないか。まあエロゲーとかで脳を溶かすまえにひととおりの頽廃を通過しておくっていうのは、順番としては正しいことかもしれない。

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一転して秋葉原-池袋-東武練馬と乗り継いで板橋サティへ。
入り口あたりに貼ってある「おとうさんとおかあさんの似顔絵のコンテスト」作品募集のポスター絵がよかった。

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きれいなおかあさんや、おおきなおとうさんがよく表現されている。
でも妙に技巧的にうますぎる感があるかなあ。おとうさんかおかあさんか、どっちかがちょっと手伝ったんじゃないのか。まあ親子共作ならそれもまたいい。

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デパートおもちゃ屋を探索。
おもちゃ屋は土地や場所によって特徴が異なるが、デパートのそれもなかなか独特でたまに漁ると発見があって楽しい。掘り出しものが見つかることもある。

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DC版カードキャプターさくら100円(通常版・限定版どちらも)。あー。
DCはほかにラリー2とかF355チャレンジとかも100円。

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チョロQ西部警察セット。複雑なマーケティングをしている商品なのだろうか。

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走る!!戦車軍団。ジャケ絵とかはなかなか本格的なんだけど「コミカルに走るよ」とかへんなコピーが入ってたりしていまひとつ統一感が感じられない商品。ラインナップは自衛隊と第二次大戦時のドイツ軍。

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以前Radium Softwareで話題に上っていた「TVにつなげるだけで遊べるゲーム」のシリーズのうちのひとつ。写真はSTGらしい。MEGA JETでカートリッジ固定になったようなものというか、コントローラ型ゲーム機っていうかんじか。ゲーム機として設計の発想が逆行しているかんじはするが、それだけに着眼点としてのおもしろさが際立つ。
ゲームの中身はどれもは8bit世代の単純なものだが、なかなかの人気シリーズらしい。

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映画「S.T.X. ネメシス」を見た。
パトリック・ステュアート氏がスタートレックのシリーズから脱するというので、一応これがジャン・リュック・ピカード最後の任務となる。ちょっとした記念的映画ともいえる。

前作「ファーストコンタクト」が、ST映画なのにこんなにふつうにおもしろくていいのかというくらい大した出来だったので今回もちょっと心配(?)していたんだけどああいうふうではなく、ふつーーーうにスタートレック映画だった。TNG映画としては「叛乱」の系統にあるといえばそうも言えるかんじか。当時と比較すれば予算面や技術面の進歩がみられるので映像としての見応えはネメシスのほうが当然上だけど。

ファンとしては、いろいろとびっくりすることの多い映画ではあった。
なんとライカーがトロイと結婚したし(ウォーフについては披露宴で悪酔いしている描写があった)、連邦とロミュランが歴史的な第一歩を踏み出すことになったし、それになんといっても、データが死んだ。これらについてサウスパーク劇場版でケニーが「本当に」死んだときなみにびっくりしたが、しかしキャラクタ間の心情描写がほとんどされない映画だったので、見ていて拍子抜けなほどでもあった。が、結局そんな心情はなんとでも脳内で補完可能なのでべつに不自由することもない。
いかにも映画プロデューサ側からの要件然とした、なんでそんなことやってるのか意味のわからないシーンがおおまかにぶちこまれているので、そこに尺を取られすぎたんだろうなとか思った。HALOのWartHog然とした地上車シーンとか、どうでもよさ全開のベッドシーンとか。たとえるならこんなかんじだ。「(映画の撮影クルーを見渡して)いいかいみんな、映画ってのはエンタテインメントなんだ、きみたちのシリーズには確かに伝統的なファンもたくさん居るけど、ぼくらがこの劇場版で相手にしなきゃならないお客さんはそれだけじゃないんだ。アクション!スペクタクル!カーチェイス!サスペンス!ロマンス!つまり僕はこう考えているというわけさ、もっと手っ取り早く激しくてわかりやすくて彼らに身近なたくさんの魅力的な刺激を、ぼくらはこの作戦でスクリーンに盛り込むべきだとね」とか。

まあそんなこたいい。スタートレックの映画はだいたいこんなものなので、今回は「予想通りに微妙な映画だった」といえる。それを普通に消化した、というかんじ。鑑賞後にこの映画の予告編を見てみたら「さっき見た映画ってこんなおもしろそうな映画だったのかー」とかいう感想が出てきて笑った。アメリカ映画の本編と予告編のギャップについてはよく言われるけど、それを最も克明に表現しているのはスタートレック映画の本編と予告編だよな。
シリーズのファンでなければ「結局なにがどうなったのか」さえわからないだろうし、CMで騙されて間違って見に来ちゃったひとは不幸だなあ。まあ騙されたひとはそれをきっかけにSTの世界に没入していけばいいと思うので、それはそれでいいけど。

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あとTがおもちゃ屋でうほうほ言いながらマスターグレードのEX-Sガンダムっていうのを買ってたけど、箱がすごいでかくてびっくりした。

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おれ小学校の頃入院してお見舞いに旧ザクやグフなどのプラモをもらった覚えがあるけど、もしあの当時こんなの貰っちまってたらたぶん悶死してたよなたぶん。

15:40 2003/04/13

メンタンピン裏ドラ2

東風荘で、オーラスに平和(ピンフ)上がって勝ち逃げした記念に戦争とか平和とか関連のメモ。

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なにかの縁で反戦行動をとるようなことがあったときには、社会に対する慎重な目が必要だろう。
自分と意見を異にする集団の趣旨として「戦争賛成」と「反戦反対」のふたつがおおまかに想定でき、これらは特性が異なる。

また、それ以前に自分がやりたいことが本当に反戦行動なのかどうかの検証も必要だろう。実際には「平和賛成」行動なのかもしれない。これらは特性が異なる。
平和賛成は個人主義と重なる部分が多いかんじがするけど、戦争反対は組織的なものになりがちなのかな。単になにごとも集団レベルにまで規模が拡大しなければ社会的には顕在化しないってだけの話か。まあ反戦という考え方は戦争があってはじめて存在するものなわけだから、そのやりかたが戦争のそれと近くなるのは当然と言える。戦争と戦う場合に戦争の戦術を組み入れるのは当然だ。

あとそれはそれとして、平和は戦争の対義語ではないと思うので、反戦をやっても平和に近づくことにはならないと思うが、それではと平和賛成をやったところで結局平和状況に貢献するわけでもないと思うんだよな。なかなかむつかしいな。平和になる方法っていうのは、友達をつくる方法みたいなもので、そんなもの当事者には理解も説明もできないことなのかもしれない。
ただ、理解も説明もできなくともそれを駆使することは、たぶんできるだろう。おれはいまだに自分が生きているという状況のことを理解も説明もできないがそんなこととは関係なく生きている。それと似たようなもんだ。

3:12 2003/04/12

日々

Sさんにt.A.T.u.のアルバムを借りた。「200 KM/H IN THE WRONG LANE」。以前に店で見かけたときCCCDじゃなかったので一瞬買おうかなと迷ったアルバム。結局自分では買わなかった。今聴いている。まあこんなかんじだな。ふつう。
「200 KM/H IN THE WRONG LANE」てタイトルはちょっとおもしろいかな。ボーリングで指がすっぱ抜けてなにかの間違いで超パワーが発動して隣のレーンに時速200kmで放り込んでしまったらストライクしまくりのハゲオヤジ、みたいなビジュアルをちょっと想像した。それだけ。

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GBAタイトル購入検討関係。

afismのhalsynth氏が「びっくりするほどつまらない」と形容していたのでそれを信じて一旦「SEGA RALLY」は候補からはずし、「V-Rally 3」を買うことにした。この不景気だとがんばっておいてほしいゲーム会社のタイトルに金を支払っておくという行為も重要なのだが、まずは自分が満足することを優先する。SEGA RALLYに関しては、それだけでなく以前からずっとひきずっている、どうにも微妙な不吉感が拭えずに居るし。
まあ、あとで買うかもしれない。いろいろとまずい評判もあるようなのだが、やはり自分で確かめないことにはわからないものだし。

やはりFFTAは購入検討凍結。そもそも購入検討理由が「1:時間つぶしゲーに適していると予想 2:買っても損はしなさそう」で、どちらも購入を決定付けるためには理由として弱すぎる。時間などGBA以外でも潰せるし、損しない一番の方法は最初から金を払わないことだ。なので今後積極的な魅力を発見するまでFFTAのことは忘れる。

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ちょっとした疑問。

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今日見た掲示板にあったへんな言いまわし、「理論より感覚派」。

理論は明示的なものだから体系化できるしそれを操る人間は一派を成しまたそれを構成する意識を自然に持つこともありえる話だと思うけど、感覚を体系化するのはむずかしいので、「感覚派」というのは「理論派以外」を指すおおざっぱなことばで、かれらは派閥としてまとまって存在しているわけではないよなと思った。
それぞれの感覚に頼った個人たちがそこには居る。

それでも「感覚派」を自称するひとたちが居るというのはおもしろおかしいことともいえる。
理論という考え方も感覚という考え方も、それぞれの尻尾につく「派」は元来必要としていないはずなので、そこにはそれらを構成するひとたちの中の「派閥に一応帰属しておきたい意識」のようなものがあるだけだ。派閥は本人に受け容れるつもりがあってもなくても関係なく浸透する。理論とか言い出すことをうざったいと感じるひとが周囲の面倒な干渉を未然に防ぐため相手のことばで武装するっていうかんじかなあ。
言語的戦術の一種かもしれない。

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明日からネメシス封切りだし結局リベリオンも未見だしで、たぶん明日は映画に行く日になる。寝坊しなければ。

0:58 2003/04/12