ひとの好意はシビアな取捨選択として表現されるので、それが及ぼし描く影響の図は恐ろしくも美しいけど、ひとの善意というものはそのほとんどがグロテスクでろくでもないものだと思う。思うが、おれが生きている現在というものはそういうひとの積み重なった善意のかたまりのうえにも成り立ってると思うし、おれ自身日々醜悪な善意を排泄して生きていると思うので、おれはそうした善意のある現実を肯定する(しかない)。
その醜さはおれを不快にするが、それがなければたぶんおれは困ったり死んだりする。必要悪とでもいうのかもしれない。おれの現実がいかにショボいものであるかこういうときにわかる。ままならないなあ、それはつまりグロテスクな自分自身を肯定しなければならないということで、やっぱり自分の醜さを認めるのはつらいっていうか、つらくはないが、めんどくさいっていうか、億劫だ。まさしくこの感覚が大事だ。自分にとって本当にいやなことというのは強い抵抗感と共にあるものではなくどうやってもそういうことをする気が起きないような部分にこそあるのに違いないからだ。
あーグロいな。耐えられない、というか耐えられるっていうか、平気なんだが、平気なことが信じがたい。信じがたいのにあたりまえなので、おれはこのあたりのことを見失わないようにしておいたほうがいい。
さあ、よかった探しをしよう!
全体的には首の攣りそうなアニメだと思ったけども、枝葉のよかったを探せばそれなりにしあわせになれるアニメだったかもしれない。しかしそれは喉元を過ぎたから言える種類のぬるい感想であるかもしれない。そういう油断によって感受性は容易に死ぬ。いずれ死ぬものだから後生大事にしておいてもしょうがないが、一応天寿はまっとうさせたいと思う。
そういえば主人公のひとがVガンダムの世界に降り立ったとして、戦闘中いきなり外に飛び出して種を植えだすシャクティを見たとしたら、彼女はどうするだろうか。
今日、ほんとになーんにも考えずに適当にGoogleで検索して遊んでたら、というか「うんこ」とか「ちんこ」とかで検索してたら、「unko」で1位になってるサイトがUNKO.ORGというサイトで、ところがこれが全然きたなくもばっちくもないふつうに奇麗なイラストなどが載ってるまともなページで、なんかこうこのサイトへのリンクをクリックするに至った不真面目なおれの手順や思考過程というものが非常に場違いなものに感じられて襟元を正したが、場が違うとかそういうふうな空気や土地や関係のつながりみたいなものがどのようにでもなるのがインターネットというものなんだからここで場違いにおれがうんこ系ページを検索してUNKO.ORGを見つけるというのはまさにこれがロボット式サーチエンジンの世界観というものだと思いなおした。
場っていうのはいかにも人間らしい感じ方といえる、そしてこの「場」に居る人間はおれ一人、ということはそこに場違いがあるとすればそれは「おれの場違い」でありほかの誰でもない。ネットにある文書を見てなにかを感じたとすればそれはそのまま自分の意図や感情をフィードバックしているわけだ、あたりまえだけど、そこには人間は自分しか居ないから。サーチロボットにはそれがないし、サイト自身も持たないが、人間はそれを持てるし、そこに分析困難な価値というものがある(と、多くのひとは思っている)。
ネットで公開した文書はどんな立場のどんなひとがどんな気分で読むか知れたものじゃないので、書き手の立場や意図や状況がそれとわかるよう説明されてあり、かつなるべくそれを誰でもが標準的に解釈できることが望ましいが、不具合が生じた場合にはそれを適宜柔軟に訂正是正したりしてたくましく変貌してゆけるっていう部分も強みであり、あーだこーだ、とにかくそういったものに関連する話になるのか。たぶん。
あーあと全然関係ないけどそういえばサーチエンジンて単語とか文字とかそういうのをガバーと蒐集してデータベースにするけど、集めたデータの扱いかたって基本的に表音語圏の発想だよな。UNKO.ORGがうんこ系と一緒に括られてるのはそういう理由だし(表記(名前)で括られていて、意味(内容)で括られているわけじゃない)。表意語的なサーチエンジンっていうのがあるとすれば、どんなものになるんだろうか?
…んー、たとえば「赤」とかで検索すると赤系の色使いのサイトがヒットするような?
あーでもGoogleて一応そういう部分も多少入ってるよな、時々きもちわるいくらいバッチリ的確なサイトをヒットしたりするし。「ぱんつはいてない」で駒都えーじ氏(パンツをはいてる女子を描かないひと)原画のゲームの紹介ページがヒットしたりするみたいだし。たぶんリンク文のテキストもデータベースに包括するとかそういう仕組みかなにかで結果的にそうなってんだろうなと思うけど具体的にどうやってんだろうな。わかんないよな。それがわかったらすごいか。そりゃそうだ。
あーそういえば骨塵2 α版が突然やりたくなったけどXPでも動くのだろうか。ていうか去年PCがぶっこわれたときデータが消えてしまったか。ギギギ。
GBA「ミスタードリラーA」を買った。
メニュー画面の思想がGC「ミスタードリラー ドリルランド」と同じ(この2本は連携している)。んー。
ドリルランドの時にも思ったけどゲーム開始前に押さなきゃならないボタンが多すぎる。「スタート→メニュー→メニュー→キャラ選択→難度(ステージ)選択」と最低5回はボタンを押さないと掘り始められない。ゲームはじめる前からディレクトリを掘らされてる印象だ。キャラ選択と難度選択はどう考えても1画面に統合できるはず(「十字キーやLRキーでキャラと難度を切替、ボタンを押すとゲーム開始」など。プレイ履歴をオートセーブしておいて最初にその画面を呼び出したとき前回と同じ設定を表示してれば親切)だと思うけど、演出的な部分とか「わかりやすさ思想」みたいな部分がおれのそれとは違うんだろうなあ。
というかキャラ選択はなくていいと思うんだけどそういうわけにもいかんのだろうな。
というかそもそもカートリッジ自体にディップスイッチみたいなものをつけといて「ミスタードリラーAモード」と「とにかくむずかしいこと言わずにドリラーを遊べるモード」を切り替えられるようにしておいてもらえたら最上なんだけどなあ。
それはそれとしてオープニングにGC版と同じ歌がそのまま入ってたりイベントが音声つきだったりと、GBAカートリッジのROM容量ってさすがだなと思った(さすがにサンプリングレートはそんなに高くないかんじ)。128MBとか普通っていうし。確かSFC「テイルスオブファンタジア」が48MBでオープニングが歌付きだった(MODっぽい鳴らしかただったと思う)けど、いまどきはあんなもんじゃない。が、大雑把にしかできなくなったともいえる。時代は進んでいる。
大規模ゲーム開発のノウハウの枝葉の応用としての低コストな小規模ゲーム開発っていうような、へんな見方もゲーオタ的ゲーム分析には常識的に要求されている頃合か。かつてゲームはでかくなる一方だったけど、いまはでかくなった一方で(人的にも企画的にも)ちいさく収める開発も同時に進められていて、そういったノウハウ群を読み解く方法はひととおりではない。
「逆転裁判2」、第3話まで進んでたのに間違ってデータを全部消してしまって1話からやりなおし。相当へこむ。
第2話までの印象で、2はやたらに女キャラが充実してるなあというかんじだったけど、3話になって濃い男キャラがポコポコ出始めたので「よしよし」とか思ってた矢先。はみちゃんはかわいいけどなー。デコキャラだし。瀬川おんぷのようないかれっぷりは期待できそうもないが。
逆転裁判については、あとでメモをまとめておきたい。
昨日。
桜が咲いた週末なので吉祥寺の井の頭公園に行ってみたら、さっそく花見で賑わっていた。
けどまだまだ桜も本番というわけではなく、つぼみだったりつぼみ以前だったりするものも多く、視野には白より黒のほうがまだ印象的。花見客もまだ前哨戦というか、足の踏み場もないほどギッチリ埋まってるかんじではなくまだまだ余裕のあるかんじ。桜も花見も本番は来週に持ち越しだろう。
おれの場合は、花と木なら明快に木のほうが好きなので、あまり咲いてない頃の桜を見るほうがたのしいので今日行ったのが正解だった。曇り空だったのがちょっと残念だけどそれもまたいい。
ほかに、横ばいの木の腹によじのぼってたけり狂う幼女や、散歩中の犬のうんこの処理に余念のない幼女や、落ち葉の積もったあたりに何度も身を投げ出してはしゃいでる幼女などを見た。
なかなかいい具合の桜が見れたので満足だったのだが、夜になってすごい勢いで体調が悪くなり、そのまま帰って寝込んでしまった。うー、来週は来週で同じ地点で桜がどの程度咲いてるか確認してみたいんだけど、あまり無理しないほうがいいかな。どうにもからだがヘボい最近。
「明日のナージャ」が、やさぐれ風来少女が少年院に収監されたりしながらおっつぁんが投げてよこす「明日のためにそのいち」とか書かれたメモを見ながら魔法少女の練習(ステッキの素振りとかおしゃまなポーズの研究とか)をしたり泪橋のたもとにマジカルジムとか作ったりして鈍色の日常と孤独に戦闘するようなはなしだったらおもしろいかもしれないけどさすがにそういうことやってたら業界的にはくびり殺されてしまうのかな。
ちゃんと見ないとおれも。
マスコットキャラと擬人化は違う。これはもう明示的に違っている。
「マスコットキャラ」と「擬人化」は見てわかるとおり同じ文字の組み合わせではないし、同じように発音もしない。違う名が与えられているということは違うものである、または違うものを指す、または違うものを意味する、と判断するのが自然だ。
それではマスコットキャラと擬人化の違いはなにか。また、それらのうちどの部分は意味を共有しえるか。
それでは「同じような」と「似たような」の違いはなにか。
ふと、「マタ マタ カイセキ デスカ?」ではじまるダンプを探してみたらこのページで紹介されていた。
この、なんというかエンジニアっぽい誠実さとかひょうきんさみたいなものが同時にのっかってるように感じる文調は、これもまたかつてあっていまはあまり見られないものになってしまったのかなあと思った。不自由は洒落の母ってことなのかな、なんかそういうふうに割り切るのはあまりおもしろくないんだけど。
適当に巡回してたらみつけた。なんだかふしぎな写真だ。

元の画像へ(http://www.insanepictures.com/pic.shtml?1033.jpg)
「不思議惑星キン・ザ・ザ」を連想した。砂漠で、男二人組みで、だからかな。
さっき煙草吸いに行ったら公園の桜が。
人間の自由というものは、他人に必要とされない状況に自分を置くことを怖れない精神のことだと思うので、それは最初から持っているものではなく獲得するものだと思う。高い(つまり過程を踏んだ)意識のうえでしか自由が実現することはないはずだ。
たとえば追い詰められた青春の爆発とか苦悩とかいうものは、それがすべてではもちろんないが、そのひとがまだ自由を獲得できていない状況ゆえに起こすものとも説明できる。「自分は要らない人間だから」とか「誰も僕のことなんか」とかいうような世界認識に対して馬鹿正直にアプローチしていればそりゃ確かに問題になる。
青春の時期というのはおおむね「要は至上で不要は死すべし」みたいな考え方を体得する時期と重なるので、その非常に美しい考え方を基準にしてなんでもかんでも処理してみたくてたまらなくなり、そんでもって自分自身を省みてみたときに「ありゃ?」となるんだろうなというふうに納得している。それまでの不慮からくる思索事故だ。
自由を獲得することができれば他に対する自分の不要という状況によって自己が揺らぐことはなくなるはずだ。どちらも(自分にとっての)現実には違いないがそれぞれの現実は認識の段階や過程が異なる。影響はあるので無関係ということではないが、現実をもって否定される現実があるとすればそれは淘汰によって自然に行われるはずなので、自分が思い悩む道理はない。悩んだところで現実が動かなければ死ぬんだし、だめだと思ったところでどうにかなってるうちは死なない。決定権を持っていないということだ。
そういうものは「知ったことじゃない」と言える。これはやけくそではなくて自然な判断なので、その認識をもって自暴自棄になることはない。知ってそれを脳内で玩んで楽しむのはアリだけども、あそびに主導権を握られるのは不慮というものだ。
自由のメリットはなにかといえば、ひとつには行動を裏打ちする感情の単純化だと思う。
「ひとを助ける」とか「ひとが好きになる」とかそういう場合などがわかりやすい。自分が相手から自由だと思えていれば、好意は自分で生み出して育てなければそこに存在する理由がない。しかし自分が自由でないと思っていた場合、相手に助けてもらおうっていう魂胆とか相手に従わなければならないっていう義務感とかなんとかかんとか、雑多な感情がわずかづつ渾然一体となって作る強い関係といったものになり、とかく人間関係を複雑化する。
複雑なものは安定しやすいとも言えるし、とても強い関係を築くための必要条件でもあると思うけど、しかし複雑な関係によって生み出されるさまざまなものを「単純に」受け取ることはむずかしい。いろんな意味合い、いろんな動機、いろんな義務感や、いろんな打算。そしてもちろんお互いの好意。どれがどう入り混じったから現状があるのかとか、ちょっと考えるだけでもうんざりする。
自由な人間同士のコミュニケーションはそういう面倒くささを生まない。
単純にできるから。相手にとって自分は必要じゃない。自分にとって相手は必要じゃない。そんなのはあたりまえだ。そのうえで相手と自分が付き合ってるのは「それがお互いきもちがいいから」だと結論できる。そのありさまは子供の砂遊びと似ているが決定的に違う、自分と相手の関係の生死を自覚し、そのうえでそこに依存することがないという点においてだ。裏読みをする必要がない、進取的な関係でなければ成立しないからシンプルだ。シンプルなものはシンプルに楽しむことができる。それは、いい。
関係によって得られたものすべて単純に楽しむことができる。関係によって壊れたものがあっても「あー」で済ませられる(自分の自由によっての行動だったので、自分の損失は自分の結果で、それ以上のものではない)。そしてそこからもまた自由になって、次々に新しい関係を作っていける。これが自由な関係じゃなければそういうわけにはいかない。意識にせよ無意識にせよ腹の探り合いが必要になる、自分や相手の気持ちや打算や義務感ぶんをどれだけ差っ引けば「単純なもの」を残すことができるか、疑い出せばきりがない。それは、めんどくさい。
だからたとえば「自由」を前提にしている集団があるとすれば、それはすごい。そりゃもうただごとではない。義務感とかなあなあを捨てて進取的な関係でのみつながっていこうっていう意味だと思うからだ。奇跡の体現か、でなければ理念と現実が生み出す耐え難い皮肉だ。奇跡ならおれの言が及ぶことはなく、皮肉でもそれを冠するに至った経緯はやはりおれの想像を絶する。
そんな集団は、時間的には瞬間で成形されて瞬間に瓦解する、ほとんど集団っていうよりは状態っていうようなものでしかないだろうとは思うけど、でもその場に立ち会うことがもしあれば、そりゃすごいきもちのいい話だなあと思う。
どこにだってそれは生まれる余地がある、駅のホームで偶然居合わせたメンツや、居酒屋の一席や、夜中のコンビニ、橋の上、トンネル、夜中のコインランドリー。人間さえ居れば自由はありうる、ただしひとりではだめだ、ひとりだと人間はたぶん「自由」っていう概念を生まないからだ。その必要が、ないから。
PS2向けのタイトルの話。他機種のは調べてない。だから実は他機種向けのタイトルについてはまともなのかもしれないし、そういう意味では「カプコンがおかしいんじゃなくてPS2がおかしい」だけなのかもしれない。もちろんPS2は、もともとおかしいと思ってるので、そうだった場合はとても自然に感じるけども。
おかしいといってもおもしろいっていうかんじのおかしさではなく、ズレてるっていうか場違いな印象を受ける。
まあ気持ちはわからんでもないが、
全身で「んー」と発声せねばならないのだろうかという気分が高まってゆき、
このへんまで来るともう明らかにおかしい。
なんていうのか、どことなく広告代理店の仕事みたいなかんじっていうか、説明のむずかしいへんちくりんさ。
扱う商品について全然わかっておらず完全に他人事としてなされた仕事か、でなければ中身について知らなくてもいいくらい知ってしまったので表現が追いついてないのか、どっちかな。むつかしいな。どっちでもだめだと思うのには違いないけども。
このユニークなんだかありきたりなんだかよくわからない微妙なジャンル名というものは、明らかに営業的な意味合いで命名されたものだ。ほかの理由が考えられない。学術的には無意味だし、そもそも「ジャンル」という概念が必要とされる局面は多くない(ただし、それが必要とされる「少ない局面」はおおくの場合重要視されている)。
要するに1本でも多く売るための戦術の一環としてゲームジャンル文化(?)は発達した。カテゴライズはわかりやすさで、わかりやすさは買いやすさで、わかりやすすぎるのは飽きられやすさだからたとえば単語の組み合わせなどで多少ユニークな面を演出するのもありで、みたいなかんじに。で、そうした流れに沿ったものとしてたとえば「シネマクション・シューター」だの「スタイリッシュハイアクション」だのはあるんだろうけど、これがいまどきで役に立ってるのか?と、おれなどはかなり疑問だ。
いまどきの世間には「シネマクション・シューター」と言われればついうっかり買っちゃうみたいなひとが居るのか。
こんな仕事に予算使うくらいならちゃんとゲーム画面を使ったTVCMを作ったほうがいいと思うんだけどー、とかいうのはこれまたゲーオタ的な偏った意見というべきだが、しかし。
よくはわからないけどカプコンも苦労してんだろうなあと思った。
カプコンはここ数年、淘汰とか再編とかが進むゲーム業界の中、短い期間で何度も脱皮をはからなければ死ぬというようなかなり難度の高い方針を選んだ会社だと思っているので、そういう意味でカプコンの展開には当分多少の「?」がつきまとっていくだろうと思ってはいたんだけど、それでもやっぱしへんなものはへんだ。
たとえばヨシモト興行が東京進出を果たすときも相当苦労したっていうし、会社が変わっていくっていうのはむつかしい。変えてはいけないことの見極めを明確にしとかないといけないし、そのうえで変わっていかない会社は、死ぬしな、いまどきは。
逆転裁判2。
1話。ギャー記憶喪失ー、まあ続編ではじめてプレイするひと居るしチュートリアルだしみたいな部分をどうにかするための妥当なところは新米新キャラか記憶喪失だわなとかオタ然としたことを考えつつ、アウチ検事とか婦警キャラに萌えつつ適当にやってたら最初の尋問でゲームオーバー。しまった油断した。
ヒントがむずかしいっていうよりは、話の流れ的にあとで突っ込むべき矛盾点を先に解消しようとして的外れなツッコミをしてしまったりとかした場合がむしろ罠になってるかんじっていうか、思い当たる引っ掛かりの可能性なんてのはほとんどこれくらいなもんなので、ほんと情報の出し方の整理がきっちりしてるなあと思った。
2回目はさくっとクリア。で、そのまま現在2話の途中。よう作っとるわほんま。ゲームがきれいです。
日記にメモっとこうっていうかメモっとかないと忘れるようなどうでもいいことがそろそろかなりたまってるんだけど、時間が取れなくてどんどん取りこぼしているかんじ。曖昧なものを記述するっていうのはむずかしいのだなあ。
そういえば昔、小学校の頃、「ボウフラ」っていう言い方があった。その意は「すくいようのない」だ。
揶揄する場合などで使うのがクラスで一時期流行ったのだが、まあこのボウフラ自体はどうでもいいのだが、その意にあたる「すくいようのない」というのは文字通りに考えてみればけっこうむつかしい状況をも説明する。途方に暮れる。手持ちの表現が少ないので、すくい上げようのないほど細かい、またはすくいあげようとすれば形が変わったり壊れたりなくなってしまったりするような曖昧なもの(まだ「もの」と呼べる状態になっていないものや、もともと「もの」という状態まで固まるはずがないものなど)っていうのは、書き記す方法がないのかもしれないなあとか。
そんなことはないいずれいまより日本語がうまくなったら、以前には書けなかったような曖昧なものだって表現可能になるはずだという短絡思考(=信仰心とも説明できる)もおれにはあるので、あきらめているわけではないけど、このあきらめのなさっていうのは、自分が死ぬまでもってればよいとかそういった程度のものだと自覚してもいる。期間限定の、嘘でもほんとでも実はどっちでもいい、とりあえずこっちだと信じていればそのほうがきもちがいいから為されてる決定だ。
自分いっこぶんのための信仰などはいかなる論理も支えはしないので、おれがきもちよくなるためにはまた違った信仰も同時に必要で、ステレオ以上の信仰をもって世界構築を行わなきゃリアリティが感じられないっていうのはつまりそのことによっておれの生まれ育った時代状況を説明するのかな?とか思っている。
わー、むつかしいなやっぱり。
Tripodのバナー広告が、JavaScriptがoffだと埋め込み式になるようになった。
Tripodの広告はでかいのでいきなりページ内に出現してけっこうびっくりした。
んー、OPERAはOPERAのままでいいのでこれでいいとして、IE系のブラウザはSleipnirにしとくかなあ。
確か去年の今頃(4月上旬くらいだったと思う)にもTripodの広告がちょっとかわってる。去年の変更点は「広告のサイズを468x72pixelから650x115pixelへ拡大(併せて広告だけでなくトピックスも入るようになった)」だった。年度の切り替わりくらいで変えて、そのまま1年やってくっていうような方針なのかな。
03年4月1日、日本郵政公社爆誕らしい。
郵政事業いよいよ民営化への動きっつーことかな。郵便局のひともごちゃごちゃ大変そうだなあと思った。クロネコヤマトとか佐川急便とかの動向も、全然気になってなかったんだけど一応それに呼応した動きもちょっとはやってるのかな。次にMに会ったときにでもそこいらへんの事情を聞いてみたい。
よしここはひとつマリみて同人誌のネタでも考えてみるかと思った(考えるだけで作らない)ので、オリジナルキャラクタの風来坊のマリちゃん(←自称。その正体はマリア様像の化身)が学園のあちこちに出没して、お互いの気持ちに素直になれず意地を張り合う不器用な姉妹(スール)たちのすれ違いなどを、マリア像モードで目撃しておいたうれしはずかしげなイベントなどを引き合いに出して解決するとかいうのを思いついた。要するに「遠山の金さん」のリリアン女学園版で、ちょっと化身っつーか妖怪っつーかふしぎフレーバー(キーワードは「江戸っ子座敷童」あたりか?)付きで、そんでもって「このマリア様を見忘れたとは言わせねえぞ!」とかなんとか適当な決め台詞を吐かせれば6割方勝ちだ(「言わせねえぞ」とか言ってる最中マリちゃんがどういう状態になるのかは考えなければならないが)。
Googleで「遠山のマリア様」を検索してみたが出てこない。んー、案外狙い目なのか?いや勘違いだおれはいますぐ寝るべきだ。
ベーマガが休刊決定したそうだ。自アン+で知った。
いまはもうネットが普及してるのでプログラムを公開したいひとも見たいひともその場を平易に入手できると思うからベーマガがなくなるのは寂しくない。が、んー、MSXマガジン復刊も及ばずかー、とは思った。
さっきIT革命とかいうなつかしい単語をふと思い出したので、適当きわまりない心境でアドレス欄にGoogle.itと入力してEnterを押してみたらイタリア語Googleだった。そういえば「.it」てイタリアだったな。IT革命が日本イタリア化計画みたいなやつだったらかっこよかったのになあと思った。元祖アイスキュロス伝説とか。みんなして朝から晩まで山盛りパスタの奪い合いの講習を受けたりとか。
あと「I'm Feeling Lucky」はイタリア語で「Mi sento Fortunato」と訳されるとわかった。Miは一人称で、sentoはセンスの語源みたいなもので、Fortunatoはフォーチュンとかそれにあたるものかな、なんとなく。今後ともイタリアのことばを覚える予定はないので違ったりとかしても困らない。
ところで、手動サーチエンジンはやぶさの「米google、人力検索サービス「Google Answers」に対するコメント」など見ながら、はやぶさからはてな?へのパラダイムシフトはどこにあったのかなあとかぼんやりと考えたりして、やっぱし悪魔城ドラキュラから餓狼伝説への質的転換みたいなかんじかと思った。
要するにはてな?がやってるのは対人コミュニケーションとしての検索サービスの場の提供だ。わたしは縁日で屋台をやるんじゃなくて縁日でテキ屋をやりますよ、という。それはなかなかおもしろい。
考えるほどのこともなくはやぶさは「実在し実行されているギャグ」みたいなサービスなわけで、はてな?と対比するようなものではない気もするんだけど、はやぶさのすごいところは「一見冗談のようでありながら本当に人力の検索サービスを行っていた」ということだし(おれは過去にはやぶさのひとに検索をお願いして答えてもらったことがあるのであのサービスが過去本物だったと知っているが、それがいまも行われているのかどうかは知らないので、とりあえず過去形にしておいた)。
当然8823.net内のコンテンツに制作者のひとのうすら笑いが透けて見えるようなコンテンツは皆無だ。「人が意図する結果を導く為には必ず人による介在が必要」という精神などはもうただただ立派すぎて頭が下がる。初志が貫徹されているので、そこに対比する価値を持ち続けている。
ともあれ中身がロボットであれインデックス式であれ「ユーザ対サービス側」という構図は変わらなかったし、そういう観点でいえばはやぶさは「ユーザ対はやぶさのひと」なわけだったが、はてな?の場合「検索してほしいユーザ対検索してあげるユーザ」というふうに相対の構造をずらしたっていうのが、餓狼伝説とかストIIとかそれ以降の、ゲーセンにあった対戦格闘ゲームにブームをつくったやりかたと似たかんじのものと説明できるかなと思ったというわけだ。
「フェアな場」と「不満を曖昧に吸収するシステム」の提供役に徹することでプレイヤに勝手に盛り上がってもらおうというやりかた。
うまくすればいいコミュニティをつくれると思うし、実際はてな?は流し読みしてて結構おもしろいんだけど、やっぱり主流を担えるというほどのアイディアではないと思う。検索に求められるものすべてをこの方式がフォローできるわけがないのだし、またコミュニティという観点からいえば問いと答えという方向性の限定された場だからユーザ同士が深く連携していくのはむずかしいだろうし。となるとプレイヤの満足感や不満感とかに対してシステム側からかなりの質量のサービスとフォローが必要になってくると思うんだけど、いまのところはてな?システムのご褒美にあたる「ポイント」のうまみというのが曖昧にしか見えてこないので、なんとなくすごい求心力のあるサービスとは感じられない。
けど、まあ、そういうふうに感じられる点も見込まれたうえでのあの設計なんだろうなと思う。なんとなく。
だからどうしたっていうことは、まったくない。
俺ニュースからリゾートしらかみ「ブナ」を紹介しているページを見ていて「しがらみ」と読んでしまった。自分で思っているより疲れが蓄積しているのかもしれない。
OPERA7のβ版だとsmall screenといってShift+F11で携帯端末等での表示をエミュレーション(?)するモードがあった。
でもこの機能、正式版だとなくなってるような気がするっていうか、small screenで確認できなくなってしまった。
なくても困らないのでどうでもいい。
有限の有言、無言(むごん)の無限。
無限は全能で無責任、つまりどんな場合にもひととしてそこにある限りとりうる最終的な立場とはならない。状況に立ち会う限り人間は全能にも無責任にもなりえない。また状況が存在しない場合にひとがひとを記述する言語はない?
有言、有限は、ひとの性質そのものだ。
そうあるのは、そのようにしかひとがひとを解釈する方法を持たないからだ、と思う。解釈っていう考え方そのものが非常に狭い範囲を指すからなのかもしれない。
Googleで「ビッグカメラ」を検索。ビックカメラもがんばってるなあと思った。「小林サッカー」みたいなもので。
ついでに「ビッグバイパー」を検索してみたらKONAMI「ANUBIS」のインタビューページ(公式)がヒットした。おいおい。ネタでも解説でもなく普通に間違ってるっぽい。文中ではちゃんとビックバイパーと表記されているので誤りはページ頭の一文だけのようだ。ケアレスミスで済む範疇。
「ビッグバイパー」は「ビックバイパー」が正しい。おれはこれをKONAMIのコーポレートアイデンティティにも等しい設定のひとつと認識していた(←非常にオタらしい自分勝手な世界認識というべきだろう、そういう点を自分の中で確認できるのはうれしい)ので、KONAMI自らがその設定をケアレスにミスしてみせるというありさまを目撃したのはちょっとショックだ。事実は違ったようなので、それはそれとして認識を改めることにして、した。
もう10年前には戻らない、SNAKEはいまどきはソリッドでがんばってる。オタにやさしいKONAMIはそこにない。あるわけがない。
「逆転裁判」クリア。結局一気にクリアまでいってしまった。次は2だ。マリみてはどうした。ああ、いかん。
どうもあたまが算数を処理できなくなってきているのではっきりしないが、5,60時間くらい眠ってない気がする。横になったりとかはしている。というか睡眠になってないだけで寝込んでたりとかはしていたので体力的には問題ないんだろう。100時間以上ずっと電話しながら原稿描いてたっていう漫画家のひとの体験談などもあるわけだから、5,60時間くらいはまだまだ大丈夫の範疇だろうとは思うけど、特にイベントスイッチを入れた覚えもないのに眠くならないっていうのはきもちわるい。
薬飲みすぎで脳内麻薬でも出たかな。風邪薬とかなんとか、基本的に眠くなるはずなんだが。
というかいまから、今夜こそは寝るけど、寝たら寝たで今度は寝過ごしまくりそうでいやだな。
アメリカにおける「千と千尋の神隠し」は日本における「ほしのこえ」的扱いのスケールアップ版と考えておいていいんだろうかと思ってみた。
結局ものつくるひとが居てそれを扱う業者が居てそれに伴う営業のやりかたがあってみたいな構造はどれも似たようなものになると思うので、そういう意味ではどんなものも似通っていて当然と考えられはするんだけども。あと評価する適切な方法がまだ培われていないときはとりあえずいろんな種類の賞をやっとけみたいなのはどこの国でも同じなのかな、もともと○○賞とかそういった類のものは、「ただ単に褒める」という案外普通にやったらむずかしいことを簡単に行うための装置なので、そういう場面でこそ活用すべきものでもあるし。
んー、ねぼけて適当に指走ってるかんじだから、ちがうかな。
今日は夕方ごろに寝る筈が、逆転裁判やっててこんな時間に。
2話でこんな大物くさいやつが敵になって大丈夫かと思ったけどそれはそれとしてサクっと進めてしまうわけなのか。逆にびっくりした。そうしないとゲーム的な進行がテンポよく切り替わっていかなくてつまんなくなるってことなのかな。全4話みたいだし。
現在3話の3日目、大詰めの調査前。
ハードはGBA SPにしておいて正解だった。だいたい読み物がノってくると足が動く性分なので、部屋でごろごろしたり夜も更けた路地裏やら公園やらうろうろしながらあそび中(←挙動不審者に見られやすいというか、実際こういう行動は挙動不審だろう)。要するにおれのあたまの中で、たぶん「読む」と「歩く」それぞれの行動が未分化なんだろう、赤ん坊がスプーン持った右手をひらいたら左手も開いてしまうようなもので、読んでると自然と歩き出すしくみだ。
これがふつうのGBAとかだとちょっとでも暗いところじゃ遊べないし、GC GBAプレイヤだったらTVの前に座りっぱなしになるので辛い。GBA SPなら夜でも持ったままどこへでも遊びに行ける。
フロントライトの発色具合はCLIEとかと比較するとどうしようもなくしょぼいんだけど、まあGBA SPとPEG-NX70Vじゃ値段全然違うしなあ(多分5倍くらい)。PalmOS5対応の「逆転裁判」とか出てれば何の問題もなかったわけだけどそんなもの出るわけないしで。
3D稼動状態のGeForce FXうる星EEEEEEEEEEEEE!
ドライヤほどではないがUSB扇風機よりはうるさい気がした。
ところが実は普通に(ゲームやベンチマークなどを起動せず)使ってるぶんにはファンをまったく稼動させないため「ネットとかエロゲーとかやってるぶんには一番静かなビデオカードかも」とのこと。エロゲで静音PCを目指すならビデオカードはGeForce FXがよいのかも。ちょっとでも3Dっぽい動きがあろうものならヴゥイイイイィィィィとエンジン始動なので注意が必要だけど。
使い方間違ってるかんじだが使い方なんてものは使うひとが決めることだしな。
GBA SPもあることだし「逆転裁判」「逆転裁判2」をまとめて買ってきた。
世間にも同人にも乗り遅れたかんじだが、逆転裁判はおもしろいと評判だったので、ということは世間と一緒に遊ばなくてもちゃんと楽しむことができるだろう。
ADVは食らい判定やタイミング入力がないゲームであってそういう類は滅多に遊ばないおれだ。レジで金払いながらよく考えたらこれ確かTが両方持ってたんだからまず借りてやってみて確認すればよかったじゃんと思い当たって躊躇した。まあいい。逆転裁判がおもしろいってのはおそらく間違いのないことだろうし、ゲームに金を使うのはゲーオタのよろこびだからだ。
で、第1話をやってみた。おもしろ。ナルホドにヤハリか。
ぬうう、16字2段、ゲームの文章屋さんの仕事だなあ。
朝っぱらから電車に飛び乗って仙台あたりに行ってみるかどうかちょっと考えて、やめた。
抗花粉薬を飲まなければ。
あと「ふと冬の日本海が見たくなる病」っていうのがあって、これも気をつけておかないとジョルダンとか調べ出しているおれがいるので危険。春でも夏でも秋でも、冬の日本海が見たくなるのだ。しょたくれたコートを着て岩場に立ち、なぜかじゃがいもの油揚げをモソモソ食ってるイメージ。
自アン+「プログラマを題材にした子供向けマンガ・アニメを考える」がひさびさにおもしろかった。
「プログラマー猿」「おJava女どれみ」「あらいぐまオラクル」「人月を探して」「パケットモンスター」「デバッグNo.1」など。このネタは毎回同じようなひとたちが盛り上がってるんだよなたぶん。
あとで保存しとこう。
週末にABA氏のrRootageがバージョンアップされていたのでちょっと遊んだ。斑鳩やサイヴァリア、ギガウィングなどのシステムを実装。自動生成なりの大味加減だけど、ちゃんとできてる。
メイドインワリオ。クリアもして、だいたいのゲームは出した。あとはちまちま潰すだけか。
いやほんと作ったひとはたいしたもんだ偉くもかっこよくもないかもしれないけど、こういうゲームは必要だ。ワンダースワンの場合にはのっけからGUNPEYがあったのでローンチの時点でもう残り一本もゲーム買う必要がないくらい完璧だったけど(実際その完璧さを保ったままおれの中で終了した)GBAはGUNPEYがなかったのでミスタードリラーでそれを埋めるしかなかったが、その欠けたる部分にワリオがガシャンとはまったかんじ。これまた味が独特なので、ちょっと働きどころは違いそうだけど。
やはり携帯ゲーム機はどういう作業ゲーをもってくるかがひとつの鍵だと思う。おれの場合には作業ゲーの有無が決め手になる。発見とか創造性とかくだらないのでおれに黙ってピーナツの皮を延々と剥かせろみたいな欲求を充たしてくれるゲームさえあれば、勝つ。狭い画面にチープな音源、不満足なプレイ環境にはそれこそがふさわしく、むしろそれゆえに作業ゲーを完全に楽しむことができる。ゲーミングインターフェースの過不足だ。
PSでGUNPEYを遊ぶと、楽しいんだけど、不満足なのだ。
ものすごく久々にコンタクトがあったので外国のアニオタ数人とチャットしたんだけど、話題はやはりアメリカイラク戦争になって、その中で「資源のある国が戦場になる」というのと「USが内戦を始めるよりはマシだ」というふたつが印象深かった。
結局GBA SPを「メイドインワリオ」にのっけ買い。
これによっておれも暗闇の中でする2番目によいことをするぜ。
本体にソフトをのっけて買ったことは結構あるけど、本体をソフトの上にのっけて買ったのは初めての気がする。色はCLIEとかFZ1とか銀なので持ち歩き用機械は銀にそろえるかと思ったけどGCが黒なので黒でそろえることにした。
ワリオはちゃんとおもしろかったので大満足。1ゲーム5秒、その連続のリズム感。へっぽこ風味のデモも楽しいし、ノリをとにかく大事にしてるかんじが好ましい。個人的にはもうちょっと飾り気がなくてもいいかなと思ったけど雑然とそういったものをいっしょに食うかんじも嫌いじゃない。ずんずん教の野望でビートマニアやってるかんじ…じゃないけどなんかそんなかんじの気がする。
遊んで得るものなんかなにもない安心感。時間を完全に無駄に使ってる満足感。ちょうどよいチープさ。目的駅についたらなんのためらいもなく電源を切れるお手軽さ。
音も一緒に楽しむかんじなので、電車とかで遊ぶためにヘッドフォン端子のコネクタも買わないといかんな。
ワリオ様のブリブリ日記の更新は終わったみたいなのでアンテナからはずしておくかと思ったけど、次に更新がいつあるかわらないようなページを人力によらず機械的に観測するためにもアンテナは存在するのだから、そういうページにこそアンテナは張っておいたほうがいいような気もしてちょっと考えたが、やっぱり外すことにした。
起きぬけに肉を食って腹を下したりとかする。
あと今日も花粉は大フィーバーなのだろうか。わっしょんわっしょんする。
マリア様がみてるは「いとしき歳月」の後編まで進んだ。つまり1冊しか読んでない。ああ。
缶入りGeForceFX。
Tがもってたのでとりあえず見せてもらう。
でかい缶だったのでクッキーとかゴーフルでも入ってんのかと思ってたらGeForceFXだと。
持ってみると重い。表にも裏にも銅。メモリにもヒートシンクが。このメモリにヒートシンクっていうのが、FXの鬼子たる所以とか。でかい。かさばる(2ポートつかう)。性能も、まあそりゃいいんだけど「んー」というかんじだそうで。んー。か。
次に期待で、FXはスルーなのかー。
そもそもGeForceFXは、nVIDIAも売る気あんましないみたいだけど。ジェガンに対するジェダみたいなものなのか。
うるさすぎてカーマック先生も辟易と大評判の排熱音くらいは聞いておくべきだったかと思ったけど、とにかく体調が悪いのでFXとも早々にさよならして寝るねる。
よく寝られたっていうか18時間は寝すぎだ。連休1日目をほとんど全部寝ることに費やしてしまった。
昨日すごい大仕事が終わったとかいうなら別だけど、昨日は全然ふつうの一日だった。
「メイド イン ワリオ」でも買うかーと思ってたんだけどどうしよう。
GBA対応のソフトを買うってことは、GBA本体かGBA SPかGC GBAプレイヤーのいずれかを買う必要があるんだけど。
今日も体調が右肩下がりだったので、朝から夕方まで薬をあれこれ栄養ドリンクで飲んだりヨーグルトに混ぜて食ったりした。それが理由になったのかどうかわからないけどとにかく1日もった。
レイトショーで「Bowling for Columbine」を見てきた。
おもしろかった。
二度見るような映画ではないと思ったのでDVDとか買ったり借りたりとかはしないと思うんだけど、あと500円くらいはこの映画に金を払ってもいい気分だったのでパンフレットを買った。600円。おれは映画を見るのはわりと好きなほうだけど映画のパンフレットを買うのはかなり嫌いなほうなのでおれが映画のパンフレットを買うというのは珍しい。
とにかくつかれた。今日はよく眠れそうだ。
日本が戦場になってしまったらほんといろいろぶっこわれるなあと思った。
平和な状態はどうでもいいものを大量に産むが、戦争にでもなればそんなもの片っ端から壊される。敵も壊すが、味方も壊す。自分でもあたりまえのように壊すだろう。余裕とか言ってられないんだから、余裕あったればこその適当でいい加減などうでもいいようなものは、誰だって自分から簡単に壊す。捨てる。なかったことにする。
死ぬ可能性に怯えればおれはなんだって捨てる。
おれにとって大事で大事でたまらないことは大抵のひとにとってどうでもいいとしか思えないようなものばかりだと思うので、おれはおれ自身がそういうどうでもいいことを「どうでもいいので捨ててしまおう」と簡単に決定してしまいかねないような状況に追い込まれることをなるべく避けるようにしたい。
繊細な感受性を大事にしていればいいってことでもない。細かいことにこだわってはじまる戦争だってある。
おれは机上の空論が大好きなので、空論をもて遊んでる余裕がないような状況がいやだ。
そしてもちろんこんな言い分は平和なときにしか通用しないので、平和を維持させようとする一切の力も持たない。
「生涯現役で行方不明」っていうオチは、第1作に信者的な熱量を持つファンを生んでしまった(それは大成功でもあるけど同時に弊害を産んでもしまう)シリーズが抱えざるをえない問題なのかもしれないな。というか1作目で信者を作ってしまえなかったような作品がシリーズになるのはむずかしいか。
思えばSTARTREKとかもそうだ。
もっとも無難な解だ。殺しても、引退させても、老衰させても、抱えているファン層のうちいずれかの部分に不満を抱かせてしまう。が、「現役のまま行方不明」なら、どの部分に対しても不満は出ない。カタルシスはないけど。「なにも決めちゃいけないけど結論だけは出しなさい」みたいな無理難題を背負わされたときはこれだ!みたいな。
アムロやシャアを殺すことも老衰させることもその時点でのファンに応える作品という観点からは決定できないという判断があったればこそ映画「逆襲のシャア」においてかれらは現役のまま行方不明という微妙な解釈がつけられたのかなあと思うんだけど(「あれは死んでます」みたいな強い証言はわりと聞くけど、まあそれはそれとして)、そういえばカーク船長も現役のまま行方不明になったんだよな。時代におけるヒーロー像みたいな位置にまで押し上げられたキャラクタにどう決着をつけるっていうのはなかなかに難しい問題なんだろう、制作側の意見とか、客側の期待とか、商売側な意見とか。
かつての主人公が死んだり老いさばらえたり成り上がったりおちぶれたり、子供作ったり子孫だったり変わってなかったりなんとかかんとか、次以降のシリーズ内的な位置づけに関してそういった外部の力関係とかも働いたりするっていうのが実状なんじゃないかなとか。それはいいことでも悪いことでもなく、単にそういうものだと思う。
映画「GENERATIONS」は「その後のカーク船長」に言及した作品でもあったわけだけども、その触れ方は当然のことながら「カーク船長はやっぱりカーク船長」の論理に沿ったもので、TNGでいまや当代きってのSTの顔役にまでなった(いいすぎ?)ピカード船長をつかまえて「今、貴様は確かに世界一かもしれないが、このおれは町内一のエターナルチャンピオンだぜ」みたいな偉大っぷりを披露し古くからのファンからの期待にも十分応える出来となった。
というかカーク船長役の役者のひとはいまでも元気にカーク船長が大活躍する小説を書いてるらしいので(しかもそれが結構おもしろいらしいのだ)、まあなんというかシリーズ的には実に「亭主元気で留守がいい」みたいな話なのかーとか思ったりもちょっとしたりした。
作品として一応の決着がついても、生きてる時空ではやはりカーク船長はいつまでだって生きているのだ。ネクサスは、そこにある。ファンはいつでもそこに行ける。
カーク船長とDr.マッコイとMr.スポックの呪縛。1st(TOS)は偉大だった、TNG(The Next Generation)はダメだ、みたいな論調はTNG当時にもあった、が、TNGはTNGでTOSと違った円熟(偉大で大雑把な宇宙英雄による冒険の時代→粒ぞろいで細やかな個性の集合としてのネットワークが織り成す偉大なうねりの時代、みたいなかんじ)を見せてこれは大ヒットになったのでよかったわけだがああいうふうに成功を収めでもしない限りなかなかシリーズものの健全な循環っていうのはむずかしいのかもしれないな。
結果としてTNGはすごく評価できるいいシリーズになったと思うし、むしろ今度は「偉大なTNG」の呪縛がDS9やVOYAGERの展開に影を落としたのかもしれないし、どうにかTNGからの脱皮をはかろうとする意味でのENTERPRISEなのかもしれないなあと思っているので、おれにとってENTERPRISEは非常にたのしいシリーズになると予想できる。獲得し築き上げた山を自分からぶっこわしてみせるなんていうのは、冒険心であるのに違いないからだ。冒険なんてものはおもしろいに決まってる。
はてさて、ということは「ENTERPRISEは是か非か」みたいな向こうのSTファンサイトの議論を読むことができれば、「ガンダムSEEDは是か非か」みたいな国内ガンオタ論争の、ありえたかもしれない違った展開を読むことができるのかもしれない。すくなくともENTERPRISEは、コンセプトに対する温度差こそあれ、その出来自体悪いものではないから。
それはそれとして「むちゃくちゃおもしろかった場合のガンダムSEED」というような妄想コンテンツを作ってるガンオタのひとのサイトはないかなとちょっと探し中。「おれが考えた最高傑作としてのガンダムSEED」とか。なんか2chのスレッド保管庫とかもあるみたいなので、そのへんを漁ると出てくるのかもしれない。
薬飲んで頭がボーとしている。ので適当におもったことをつらつらと書こう。
なんかこう、世間でいう一昔前、ネットでいうと二昔前くらい、オタの集まるこじんまりしたwebサイトなどとか、ていうかGUIじゃなくてCUIだった時代からだったような気もするが、ともかくいろんなオタの会合所があったよなとさっき思い出そうとしてみてほとんど思い出せなかったわけだけども、そういうところとかで猫も杓子も人工無能チャットが置いてあった時期ってなかっただろうか?
設置に流行があったかどうかはともかく、オタ管理人が何の気なしにとりあえず置いてみた人工無能チャットというものをわりと頻繁に見ることのできた時期はあったと思う。最近はあまり見なくなった。単におれがそういうところに行かないだけかもしれないけど。
で、考えたんだけど2,3年前に設置されて当時ちょっと使われたあと放置されていまでも残ってて、しかもそのあとずっと誰も入室してないような人工無能チャットってどっかに無いかな。そういうチャットに居る人工無能はひょっとしたら数年前のオタが普通に喋ってたような単語とか言い回しとかを時間の流れに取り残されたままずっと覚えてるんじゃないかとか思ったんだけど。
まあ2,3年じゃまだわかるような変化はないかもしれないけど(今調べてみても2chを匂わせる表現などが忌避されていた時代のオタコミュニティの気分などは感じることができるかもしれないけど)、これがたとえば10年とかだったら結構なオタ文化資料になるんじゃないかなとか。古語や廃語は、なかなかそれと意識することなく消えていくものだし、人間をタイムスリップさせるってのはそうできることじゃないので、機械にタイムカプセルの役割をやってもらって後々で掘り起こして検証するってのは、できることなら結構楽しいかもしれない。
んー、ちょっとまえっていってももう忘れてることとか多いよな。たまごっち騒動とか。書いてて思い出した。うわなつかし。
逆に「はー10年たっても同じひとがおんなじこと言ってて、10年前の連中と今の連中の考えてることとかほとんど一緒だよ」みたいなことになってるのかもしれないけど、それはそれで楽しい。んー、そういうのほんとにやりたくなったらアニメ雑誌の古いのとか漁って読者コーナーを重点的におっかけてみるのがいいのかな。
雑誌だと単純に「読者像」だけを切り分けるのがむずかしそうだけど。
先日のガンダムとオトナ帝国の話に関して、「「本気でオタにとどめを刺しにきたようなアニメ」として、エヴァが挙げられてなかったんですが、あの最終回とか映画版とかって違いますかね?」という指摘をいただいた。
そういえばエヴァがまったく眼中に入っていなかったとメール読んで気付いた。あー。
で、改めてそれでは「エヴァンゲリオン」はオタにとどめをさしにいったアニメだったのかと考えてみた。第一感としては、なんとなくそう感じない。オタクラッシャー候補を考えるときおれの眼中に入らなかったのはそれで正解だったからなのかなとも思える。
とどめにさしにいくような文脈をそこに探すとすれば、なんとなく「新くてあたりまえの生活に帰っていきましょう」というよりは「アニオタは先がないので中退しましょう」といったかんじの趣旨のように感じられ(つまり後先を示すビジョンが特になく、自分ですでにビジョンを持っているひとは相手にしていないように感じる)、しかもその明らかに屈折した想い(がそこにあると推定したうえでの解釈)を視聴者が素直に受け取るわけがないことは自明、はじめから無効だ。監督の庵野氏自身が疑いなくオタなのでオタに関するそういったことも十分にわかりえたはずで、ならばこれは意識的に決定された表現と判断できる。
中里一氏の03年02月20日の日記で触れられていた大塚英志氏による「有害コミック問題・美少女系エロまんが関連の記事の論旨」と通じるところがあるのかもしれない。オタは目の前に投げ出されたテーゼをそのまま食わない。往々にして否定する。そのうえにもってきて「萌え」以降のオタはアンチテーゼをおおっぴらに肯定してみせるあざとささえも獲得してしまった。こうなってはオタ相手には何を言っても無駄で(熱量それのみは解釈されるが、その持っていた方向性は意図と関係なく場の都合によって解体され消費される)、そういう制作側の無力感やどうでもよさ、そこを抜け殻として脱皮を図ろうとしているひとたちが居る状況というのが現在だ、と思う。
オタ相手になんらかの干渉をかける場合に有効な手法はそうした「オタの土俵」のうえで有効と思われる切り口に頼ることではなくて「オタを自分からオタの土俵から降りるよう仕向ける」ことだということになるのではないかなと思う。そしてエヴァンゲリオンはたぶん、前者だった。エヴァオタとしてのオタに横合いから斬りかかることはできたかもしれないが、アニオタとしてのオタにとどめを刺す力は最初から持ってなかったし、見込まれていなかったんじゃないかなと。
…んー、ということは、土俵の上での技巧に頼ったおおきな力は土俵の外に向けての力として働くことがない(≒そういう場合には無力である)、というおれの無意識の判断がそこにあるのか?
表現を変える。
エヴァンゲリオンが理由でアニオタをやめたり、アニメから遠ざかったようなひとは少なくともおれの周囲には居ない。
ドラクエで勇者や仲間が殺されても王様とか教会とかでよみがえっちゃうし、そういう打撃では殺せない。いくらHPを減らしたところでプレイヤは生きているからだ。方法が違う。
次のステップ。電源をひっこぬいてカートリッジを叩き壊したくなるようなゲーム(=クソゲー)を出してプレイヤに直接精神攻撃をかけるっていうのはかなりいい方法だけど、それでもまだ足りない。クソゲーを知ったくらいじゃオタはやめない。どうせまた新しいゲームを買ってきて次のゲームをはじめる。この手段も正しくない。
オタを真に殺すためには「自分からオタをやめさせる」しかないんじゃないかなと思うのだ。旅人の衣をはぐには北風じゃなくて太陽。オトナ帝国はなつかしい20世紀に戻るより家族と生きる21世紀を選んでみせるヒロシと、彼が支えるに足る見事なしんのすけをも示してみせ、それを眺める視点として胸をしめつけた。これならどうだ。オタはぶった斬られる、と思う、すくなくともおれには効いた。ぐはあ。死ぬことはもちろんないが(おれは、このおれがアニメごときでオタをやめてたまるか!というふしぎパワーを体得しているので)、しかし明らかに外部へ通じていくダメージだ。いずれ来る死と再生を予感させる。
エヴァンゲリオンにそういう出口はない。エヴァはオタクの内側だ。あるとしてもひと時の死、そして死後コンティニューされる。
あるいは見方によっては、エヴァンゲリオンは寿限無「マニー」よりは先まで進めたのかもしれないけども。
…んーしかしなんだな、結局「内の力だから違う」っていうような理屈しかこねられないかっていうか、今読み返してみて全然筋道がとおってないなと思った。これはこれで一息に書いたおれの所感なので書きっぱなしにしておくんだけども、やっぱしなんかアレなんだよな。ひとりよがり論法であるにせよ、もうちょっと優れた表現だってできるとは思うんだけど。
で、全然べつの話。
ところでこの「エヴァがナチュラルに眼中になかった」というのはちょっとおもしろいかもしれない。03年現在のおれがアニメとか肴にしてなんか小難しいことを考えてる時、エヴァンゲリオンがおくびにも出ないってのはなんか奇妙にすがしがしい。ただ単に忘れていたのか、それとも実は「脳内では意識していて、そのうえで候補外として扱った」のかについては、どうにかこうにか客観視点をつくって検証してみたほうがいいだろうけど。
「無視していた」っていうことはない。無視は戦争と同じく多大な浪費なので、なにかを無視しているときそのことに無自覚であるのは不可能だ。疲れるから、必ずわかる。おれはごく自然だったので、わからなかったし、ということは無視してない。視野にはあったが、風景に溶け込んでいたか、視界に入ってなかったか、ともかく個体として浮かんでこなかったのだ。
いまどきにエヴァを土台にして展開する議論の食いごたえのなさっていうのが、ほんとにおれの実感なんだなあと今回の件ではっきりした。もう忘れちまってるよおれ。小売店の店主にとって金勘定はおもしろいが経済学がつまらないってのといっしょだ。確かに、ええと、7,8年前だものな。エヴァンゲリオンはオタ的な大事件のひとつだったので、あれが大きな節目になっているし、あのあたりから汲み取れるものっていうのは現在でも多大だとは思うけど、もう明らかに当時の面影は存在していない。実体は名を変え品を換え、ただ潮流の源としてその名が残るのみ。
あとついでに考えてみようと思った仮定について、もう眠いので放棄してメモ。
萌えがエヴァオタの文脈から発明されたなどとはまったく思わないけど(むしろ当時かれらと違った温度でアニメを楽しんでいた客層がその土壌を作ったのではないかと思う)、顔真っ赤にして議論するという形態に対する疲労とか反省とか羞恥心とかから、ひとしきり議論やって疲れた元エヴァオタのひとがそうした潮流に対する肯定的な担い手として参加したっていうような状況はありえたと思う。
なら次は萌えに対する飽きからくる議論再熱の時代?
…と予測するのは単純だし危なげだ。
たとえばガンダムSEED関連におけるそれは、元エヴァオタ層とはちょっと違うんじゃないかなと思えるし。
あー、まじでろくな発想ができない。寝る。
あきまん氏のページにすごいのが載ってるというので見にいったらすごかった。あきまん氏はログを残さないひとだというので、ページごと名前をつけて、保存した。おれは滅多にひとのデータを保存しないが、それはそれがめんどくさいので残すくらいなら忘れるまで覚えておくほうを選ぶからなのだが、今日はなんとなく保存したくなった。
結局保存したってそれを見返すわけじゃないような気もするんだけど。んー。なんか甘いことをしてしまったかな。保存したやつは消しといたほうがいいような気がする。よし、3日考えて決める。
…とまで書いたら消していい気分になったので、あきまん氏のページに行ってもう一度見て、HDDに保存したページは消した。よくみたらなんか下のほうに追加されてるなストーリーが。以下続刊なのかー。「機動戦士伝「我が名はGM(ジム)」仮」らしい。
それにしてもあきまん氏っつーひとはすごいね。なんせ「コココココココココーーーーーー!!!」だ。おおむねここに集約される。意味がわかるようでわからないがそれで構わないかんじ。いやわからないようでわかるような気までして、まあいいかという気分になる。どうせ他人のことなんぞわかるわけがないので理解できないものがあるのはあたりまえだ。そのあたりまえのものがそこにあるというむずかしさ。すごい腕前、すごい指。天のものでも地のものでもなく感のものでも野のものでもなくまさしく人間いっこぶんの人の性、いろんなものを見たり聞いたりもらったりしたしもともと持ってるものもあるけどとにかくここに男一匹あきまんがこれを描いたぜーていうかんじだ。非常に個人。わかりやすく区別できるなんらかのものとしての絵。
褒めすぎか、まあそれもいい。
あ、というかあきまん氏の名前は「あきまん」ではなく「akiman」が正しいのか。
なんだか最近ガンダムのはなしが多いかんじだけどべつにおれの周囲でとりたててガンダム温度が上がっているわけではない。
「」←これ、シャーペンで字書いてた頃は入れ子で使うと記述式に反しているような気分があった(どうしても使う場合には『』とか<>とかを併用して同じ記号で入れ子にするのは避けていた)んだけど、このごろはその意識が薄い。HTMLなどではガンガン入れ子構造のタグを書いてる影響だろう。
粉薬のおいしい呑み方を発見。
適当なヨーグルトにふりかけて、かきまぜて一緒に食う。これ。あーでもなんか薬ってお茶と一緒に飲むとダメとかそういうのがあったから、ヨーグルトと一緒に呑むのもだめなのかな。
とりあえず一週間くらい続けてみよう。
シャアザク訂正。
昨日のはなしだとザクがシャアザクに随行する場合通常と比べて約33%のスピードで機動しているのではないかという話だったけど、シャアザクは通常のザクと比較して推力30%増の機体らしいので、シャアザクを130%とするならシャアに随行する通常のザクは130%の1/3、つまり約43%の推力で機動していることになる。
ボロ靴の右足側に穴があいてるのかと思ってたら左足にあいていた。今日靴下が濡れて、わかった。
キッズGooで「萌え」を検索。現時点で大半が表示不可能ページになっている。
んー、結局「萌え」は成年語なんだろうかな。「萌え≠エロ」というのは大抵の場合あてはまるんじゃないかなとは思うんだけど。単に萌えっぽいコンテンツを扱ってるページの問題なのか(それは結局成年語であるのと同じ意味になってしまうか)。
ちょっとおもしろかったのでメモ。「「立入禁止」の誘惑に勝てないウェブユーザー」。
こういう活動はまったく無力だと思うけど、でもおれはこういう活動が好きだ。おれは多分ガソリン氏の心情の一端に共感できると思う。
「何かをすることよりも、しないことの方が効果的な場合もある」っていう考え方を、ちからあるものとして主張するっていう部分には「あー、アメリカ人っぽいなあ」という感想しか持てないけど。なんかこう日ごろ肉食ってるひとたちっていうのは自分の活動を毎日肯定しないと死ぬとか信じてるんだろうか。
ガンダム関連その1。おれが考えた同人ガンダムゲー。
ああ、だめだ。こんなもんだ。やっぱりな。
ガンダム関連その2。シャアザクは通常のザクの3倍のスピードだというよりは、シャアと一緒に出撃する場合ほかのザクが通常の1/3のスピードで機動していたという見方のほうが自然だと思う。性能の問題でなく、なにか戦術的な理由だろう。
ガンダム関連その3。このページで「ザクはもともと対艦戦用途などが主の兵器で、対MS戦は想定外だったのではないか」との説。
ああ、そういえばそうなのかとうなずきかけたが、ザクを開発した時点で最低限「対ザク」戦闘は想定されていたのではないのかなと思う。いかにモビルスーツが革新的であったにせよ、結局同じ空間で戦う兵器なので(地上戦(2D)の時代に飛行機(3D)を持ち込んだとかそういう話ならドラスティックだっただろうけどそうじゃないので)、当然わりと早い段階で鹵獲されるなどの悪い状況も想定していただろう。
新しい兵器を開発したなら、当然その兵器に対処するノウハウも研究するはずだ。そうしておけば相手が同じ手段で攻撃してきたときにも対処できる。結局連邦の新型の性能は予想を超えたものだったので、うまく対処できたとはいえないわけだけども。
最近小学校に入学するくらいの子供は、もしかしたらペンで字の書き方覚えるより先にキーボードでテキスト入力してるのかもしれない(「キーボードでテキストを入力する」ってのも、今後なつかしい特殊技能になっていくのかもしれないけども)。
とか、なんとなく想像してみてショック。
それはそれとして、なんとか今週中にマリみてを読まなければならない。
GC「LOTR TTT」でレゴラスが案外苦戦している。なんのかんのでストーリーもオルサンクも未クリア。プレイが雑になってるかもしれない。なんとなくクリアっていうよりチャンバラを楽しんでるので、それはそれでよし。
XBOX「PROJECT GOTHAM」を延々と遊んだ。半日くらい新宿の長めのコースを延々と周回してたりとか。
んー、ちゃんと延々遊べるようにできてるなあ。それが確認できるゲームは少ないので、こういうゲームはありがたい。
次作があるとすれば池袋も入れてほしいけど、池袋は駅を周回するとしたら南側をビックリガードで抜けるのはいいとして、北側の高架をとおったあたりが風俗街になってるのがなんとなくアレだな。というかそもそもコースとしてのおもしろみが新宿と渋谷でだいたいフォローできてるから、池袋をわざわざ入れる必要はなさそうだし。
秋葉とかならおもしろいかもしれないけど。
ABA氏新作、自動生成ボスシューティング「rRootage」公開。たのしい。
ABA氏とかそのあたりの地道な活動を見ていると、STGって今後オープンソースなアマチュアホビー体系としてほのぼのと続いていくのかもしれないなあとかまで淡い期待を感じる。四の五の言わずにあるものを遊び、ないものは作るという姿勢こそが趣味に大切なものだ。それはあたりまえのことだ。
なんだかとりとめなくメモ類をひとまとめに。
「ファースト世代からのガンダムSEED擁護論」というページを読みながら、これはひょっとして「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」みたいなやりかただったら大正解だったみたいな話なのかなあと思ったっていうか、おれの考えは筋合いが違っていてそれはむしろ「キングゲイナー」でやるべき話なのかもしれない。
オトナ帝国みたいなやりかたでおっさんを大肯定するなら「作品側から大きいお友達に肯定的な別れの握手を差し伸べつつ、大きいお友達が勝手にありがとうの涙を流しながらさようならを言う」という状況が、生まれなくもないような気が、する。しかもそれはやっぱりなんというか一時のもので、顧客としてそういったおっさんガンオタ層がガンダム商品から脱していくということは意味しない。このあたりはなんというか、「自分の身近にあったと感じられるような事件などを取りまとめていい話としてFlashなどの形式で作品としてまとめてしまって、とりあえず「感動した」とかなんとか言っといて、HDDなどに保存して、忘れる」っていう方式の快楽と同じような仕組みと考えていいだろう。
大半のオタはもう自分が感動することや「なにか大事な事件の影響を受ける自分」という構図もすでに解体し尽くしていると思うので、感動や影響それ自体の価値は否定しないけどそういうことによってはもう自分自身が変わることはないとわかっているだろうからだ。
とはいえ過去に本気でオタにとどめを刺しにきたようなアニメってのはたぶんないよな。あったとしたら、すごいと思うけど商売人側からはやっちゃいかんことのような気もするし。「逆襲のシャア」とか「オタクのビデオ」とかは、やりかたとしてはわりと近いのかもしれないけど、やはり時代に対する封印にこそなれ、客に対するとどめとしては作っちゃいないだろうと思う。矛先が逆な気がするのだ。もちろんそれが普通だ。
こういうのはガンダムが抱え込んだ無理難題とも言えるだろう。たとえば「おっさんも子供も楽しめる」っていう方法論ならアニメでいえば宮崎駿氏などが現在でも実証していることであるし、原恵一氏の手になるクレしん映画もそういった解のひとつだと思うけど(クレしん映画が果たして子供に楽しめるのかどうかおれにはわかってないので、そういう意味でここで原恵一氏を例に挙げるのはおれの誤解なのかもしれない)、ガンダムSEEDの場合は「おっさんと中高生が同時に楽しめる」っていう方法論こそが至上の正解であったのかもしれない、という話だからだ。
もちろんおれは、この難題は客側に一方的に存在している夢想であるのに違いないと信じる。そんな無茶な大看板をガンダムに関してぶち上げてみせるような制作者が居たとすれば、よっぽどのきちがいか、でなければ富野氏と同等以上の格だ。
おっさんと中高生が同時に楽しめる作品なんてのは、それは一体どういうものか。
∀ガンダムで富野氏は「すべてのガンダムを肯定します」と言った。おれはそのコメントを読んで、富野氏がアニメという土俵でそういう正解を出そうと挑戦しているのに違いないと思った。その片鱗は見ることができたようにも思う。そして「キングゲイナー」はガンオタに向けたオトナ帝国なのか?だとするならキングゲイナーはオトナ帝国同様に、大人以外には実はそんなに楽しんでないのかも、という懸念を抱えているのだろうか(そのへんのことはどちらに関してもよくわからないので、曖昧)。とりあえず追っかけてみないと、なんともいえない。
ファミスタとかダビスタみたいな、(当時勢いのあった)ゲームでなら、中高生もおっさんも遊んでるという状況はまだありえたと思うけど、2003年、今、アニメで、どうなのかなあ。
同人誌とかで「嵐を呼ぶモーレツ!ジオン公国の逆襲」とか、誰かが作ってくれたら、ひとつの答えは出せるのかもしれないな。つまり、それで案外いい具合なのか、それじゃ全然ダメでやっぱり別の正解が必要なのか、どちらか。
…というか、結局のところ嵐を呼ぶモーレツ!ジオン公国の逆襲というのは、逆襲のシャアのことなんだけど、あの時点でシャアとかアムロとかが偉大すぎたせいなのか、ララァの電波が強すぎたのか、ハサウェイやクェスがへぼすぎたせいなのか、チェーンが事情を知らなすぎたせいなのか、若いひとの刹那的な突っ走りはそれ自体結局お話を主導することがなく。むー。単に若くあろうとする人間が、自分の後続を認めることはむずかしいってはなしならわかりやすいんだけども。
なんつーか、ヒロシが「νガンダムは伊達じゃない!」とか言ってエレベータにかじりついて、結局そのままエレベータぶっこわしてイェスタデイワンスモアの野望を阻止しちゃいました、みたいなオトナ帝国っつーか。そりゃましんのすけがアレしちゃったからサイコフレームがどうのこうの、とかいうくだりはあったにせよ、結局おいしいとこはアムロとシャアががっぽりいただいちゃうわけで(そのぶんしょーもなさもさらけ出してしまうわけだけども)。
あの時点でああするのはおれは正解だったんだろうなあと思うけども、でもまああれ見たガンオタは「あーんじゃ当分このままやっててOKなんだね」と思うのが自然だとも思うわけで。
おれは、結局自分にとどめを刺しにきてくれるような親切な存在は自分だけだと思っているので、それはそれでいいし、そうならやっぱり自分のオトナ帝国は自分で作らなければならないんだろうなと思う。キングゲイナーでとどめが刺せるなら、ガンオタはじめてガンオタつづけて富野監督にとどめまで刺してもらえるってことだから、これ以上至れり尽くせりな状況ってのは滅多にないので、キングゲイナーの最終回でエクソダスできるようなおっさんオタがもし居たとすれば、そのひとは現存するアニオタの中でも最も幸せなオタの中の一人だろう。
そしてもちろん、一度死んだやつは、もう二度と死なないのだ。
ブラウザにおいて現在最もどこでもドアに近いサービスを想定するなら、
ということになるだろう。
もう一歩進めてよりどこでもドアに近づけるなら、クライアント側でユーザのweb巡回傾向を記録しておき、見たいページの指定が曖昧な場合は閲覧履歴を参考に多少傾向を絞って検索エンジンに問い合わせを行うなどの仕組みがあればいいかもしれない(ただしこうしたサービスが実現するには、プライバシ保護の問題や、そもそもそうした絞り込みが果たして検索サービスとして有効なのかという点について検証が必要だろう)。
Googleの「I'm Feeling Lucky」はユーザが期待するページをかならず一発で表示することを保障するものではないが、どこでもドアでもそのような例はあるので「完全でなければならない」ということはないだろう(実際のび太の場合だとここがヒットしやすくなってしまうなどの問題があった)。
というかどこでもドア関係の妄想は結局体系としてまとめるのが無理そうだから個別にメモ化していったほうがよさそう。
はてなアンテナで有名な人力検索サイトはてな?の新サービス「はてなダイアリー」が正式に開始されていた。ああよさそうだなおれも自分でぺこぺこページいじるのやめてはてなダイアリに移ろうかな、とか考えないでもないけどもたぶんいまのところはてなダイアリーに引っ越すことはないだろう。
でも一応借りてみた。無料だし。
んー、なにかに使えば間違いなく便利にはなるんだけども何に使ったものか。
便利=しあわせというわけではないので、しあわせを犠牲にして便利にひきずられるわけにはいかない。とりあえず実験とかしてみて考えよう。つーか過去文書のアーカイブとして扱うのが賢いのかも。画像関係では不自由しそうだけど。
上のようなものをまとめたページを「リンク集」としてさっき一旦作ってアップロードしてみたんだけど、なんかそんなもん置くためにTripodにアカウント取ったんじゃないやと思ったので消して、消したけどべつにあって困るようなものじゃないのでここにまとめておくことにした。
あとここのニュースにあるような過去をもってるひとがうらやましい。なにかの拍子に思い出してしまったとき、腹がよじれて布団の中でもだえ苦しんでしまうような過去をいくつ持っているかで、困難な状況に陥ったとき(地獄に落ちたときなど)の腹の据わりかたが違うと思う。