風景とWTMフィギュアのコラージュ写真でも作れねえかなと思ってそのためには戦車の実寸とかをきちんと調べてうまくアングルとか寸法とか合うようにやんないといけねえよなと思ったのでそこいらへんの資料を探そうと検索してたらみつけた戦車アイコンのページがとてもよかった。
こんなのよ。すばらしい。
というルールでいろんなひとが描いてるみたいで、どれをとってもなかなかによい。そのうえスケールが実寸基準で統一されているから見たまんま対比できる。
ドーラ(列車砲)てこんなでかいんかいみたいなのとか。
あれこれ見てると戦車だけじゃなくて船とか飛行機とか列車とかいろいろある。つーか路面電車とかバスとかの解説文が異様に長くて「あーオタなんだろうなー好きなんだろうなー」とかひとしきり納得できたりして楽しい(しかもこれらは戦車シリーズと同スケールだ)。
んでもってさらにこれらがすべてフリー素材として提供されているのだ。
なんというのか、ここまでくるとドット打ちもアカデミックなオーラを放つのだなあと夜中一人でひとしきり感服。
それはそれとして日本語ページだけでも戦車のページって相当ありますな。日本人の戦車好きってやっぱし多いのか。
また風邪だ。大変まずい。
結局第3シリーズを買いはじめてしまった。まずは2個。大変やばい。
毎日2個買ったとして500円だから1ヶ月毎に15k円ほどWTM予算を計上しなければならないのか。まあ1日5個ずつ第一シリーズから延々買い続けてるひととかも居るからああならなきゃいいとかいう甘い考えで買い始めてみるのも悪くはない(のかも)。とりあえず禁煙からはじめてみるか。
WTMが食玩として優れているところはほかの多くのそれらと違って「ダブリ」がお楽しみ構造にちゃんと組み込まれていることで、むしろ同じ戦車をたくさん出さないと小隊も中隊も大隊も連隊も師団も作れないっていうことだからどんどんダブっていいわけだ。まずは少なくとも同型同色4台(または5台)揃えてからがスタート地点、ちょっと端数が出てたら「あと一個小隊できるよなー」で、できたら今度は中隊にしてみたくなり…(以降終わらない)。
ああ一応終わりはあるか。実際の戦車の製造台数ぶんまで揃えてしまえばそれ以降同じ種類が出れば「余剰」っていう扱いにしてもいいのかも。シャーマンとかでやろうとすると地獄を見そうだけど。
ていうかせっかくコマ揃えるんだったらなんか使ってゲームにできないかな。単にゲームに使うだけならべつにチェスでもいいんだけど、やっぱし昔ながらの定規と分度器とサイコロ使ったあれしかないのか、戦車だったら。
あまりに寒いので起きてしまった。
で、起き抜けにふと思ったんだけどエロバレーのカメラのコントロール履歴が他人に漏れたら相当いやだろうな。大した自由度があるわけじゃないから結局どれも(操作した本人にさえ自分の操作だとは特定できないほど)かわりばえのしない画面になってんだろうけど、その客観的ユニーク度(?)の低さに比して主観的抵抗度(?)は高いんじゃないかなーと。
最低限どこに注目するか(しないか)のクセみたいなものはあるだろうから、そこでおおまかにばらけはするんじゃないかなと思う。むかし喜国雅彦「傷だらけの天使達」だったかで男が女を見る視線は自分が小中学校くらいからおっさんになるまでで「顔」→「胸」→「尻」とだんだん下がっていって最後はとにかくやらしてくれればなんでもよくなるっていう話があったよなあとか思い出しつつやっぱ若いひとはおれとは目の付けどころが違うんだろうかとかなんとか。デフォルトがへそのあたりをフォーカスしているので、特に意識しない限りは自然とおやじ視点に近くなるような気がするのであれだけども。
デザイナのひととかだとやっぱ腕のつけねとか注目してみるのかな(人間キャラをワンスキンでモデリングするとき弱点が露見しやすいのが脇の裏あたりの挙動らしい)。このあたりもエロバレーは相当うまくやってるよなと思う、よそではやれない水準なのは間違いない。ここまでギャルモデルに開発費と労力と技術とマシンパワーを突っ込んでるゲームもそうそうないんだし。
全員水着で脇の裏隠さずってのは、もうこれはどこに出してもはずかしくない当代一流の現役ゲーキャラモデルをバリバリ動かしてみせるぜっていう決意と自負だったんですかね。
おれの場合足の裏フェチなのでこのゲーム全員偏平足なのがちょっと残念。
WORLD TANK MUSEUMは中毒性がおそろしいので手を出さずにいたんだけど小冊子がついたスペシャルエディションだというのでついつい一個買ってしまった。やばい、やばいぞ。
秋葉の海洋堂とかいったらいまでも第1〜3シリーズものって買えるんかね。せめてチェスができるくらいまでは駒を揃えたくなってきてしまった。いやだめだ、いいように踊らされないよう気をつけないと取り返しのつかないことになる。
今度PS「PANZERFRONT Bis.」でもやって気分を落ち着けよう。逆効果か。ともかく今日は寝る。
今日も今日とて東京タワー。
あー足元行きたいなあ。今週末にでも行くか。
目で見える距離なんだけど歩くとけっこうあるんだよな。こんなかんじ。
んー、丸一日とか時間を区切ってJRとか地下鉄とか使いまくっておれ的名所撮りまくりとか一回やってみるのもおもしろいか。たとえば23区内の高層ビル(超200m級とか適当にしぼって)何本いけるかみたいな。寺巡りってのもいいよな。いや博物館スタンプを押せるだけ押すツアーとかも…。
結局どうなったのかよくわからない第二東京タワー計画だけど、あれができたらまた景観があほらしくなっておもしろいだろうな。一本だけでかい鉄塔が地上からヌボーと突き出てるイメージ(たしか600m級とか聞いた)。
秋葉に建設予定説はもうなくなったんだよな確か。最後に聞いた噂だと上野だっていうはなしだったけど…。計画自体なくなってたりはせんだろうな。してるのかも。
ふと「ジャイアンリサイクル」って単語で検索してみてみつけたスレッド「この会社辞めようと思ったソースコード」がおもしろそうだったので後で読むためにメモ。いやこっちのほうが探しやすいか。
夜はMさんの誕生祝いで肉食ってかえってきた。げふー。
全然やりこんでないけどしばらくやっているかんじ。
というか淡々とバレーだけやってるとだいたい5,6日目くらいで相棒に愛想つかされてコンビ解消になっちゃってそのあとほかのひと誘っても相手してくれないので最近はザック島についてだいたい1週間バレーやってデフォルトの相棒(坂本真綾のひと)が消えたらその日はぴょんぴょんゲームで時間つぶして翌日帰るっていうサイクル。プレゼントか?結局モノで釣らにゃならんのか?バレーやってるだけじゃだめなのか?
馴れ合いUZEEEEEEEEEEEEEEEEE!
あとこのゲームを買うようなひとは全員ポリゴン水着ギャルをじっくりたっぷり見たいから買うようなひとであって逆にいうとそういうひとはそれ以外のめんどくさいことはなるべくやりたくないひとだと思うからこのゲームはちゃんとマニュアルなんか読まなくてもゲーム中でどうやったらこのゲームをうまくプレイできるのかっていうようなチュートリアルをうまい具合に挿入すべきだったんじゃないのかなと思った。
そりゃまあなにか買ったらマニュアルくらいは読むのが当然だけどもそれはプレイヤ側の意識の問題であって、むしろ制作者側の立場でいえばこういう雰囲気のゲームでプレイヤにマニュアル読まなきゃだめなのかなっていうように思われたら負けじゃないのかなあ。女の尻につられてアホまるだしでノコノコ寄ってくるような客は、なにしろ、上客なんだから。
具体的には、
この2つさえあればエロバレーは「バレーゲームを豪華に飾り付けただけのソフト」ではなく「ザック島で過ごすアホアホバレー&休暇シミュレーション」として歓呼をもって迎えられたのではないか。なんちゅうか見た目がいいもんだから器自体のザックリしたコンパクトさが残念でしょうがない。ていうか単にTeam NINJAは格闘とかアクション専門だからADVとかSLGとかデザインできるスタッフが居ないからどのみちそういうふうにはやろうと思ってもできませんよ〜みたいな話なのかもしれないけど。
まあしかしこういうゲーオタの欲望は無茶な注文なのかな。なぜ美少女キャラなんていうものを手間暇かけていっしょうけんめい作ってるのかといえば、それはスタッフ個人としてはプロ意識とか職人根性とか趣味とかなんとかいろいろだろうけど、企画判断としては「美少女キャラをドカンと一発出しておくことによってそれ以外の部分にコストダウンを見込める」っていうメリットのがでかいんだろうし。悪くいえばギャルさえばっちりならほかで手抜きしてもあんましバレない、もしくは見逃してもらえるっていうようなことでもあると思う。エロゲーとか基本的にそれだし。
そういう意味で美少女を出しておきながらほかの部分で手を抜かないっていうのは、抜いてもいい手間隙をあえて抜かないっていうことであり、単純な足し算引き算でいえばそんなことするやつはゲーオタの妄想なみにいかれた脳みそでゲーム作ってるステキ会社っていうことになる。ステキな会社には当然カルトなファンがつくものだけど、いまどきはカルトゲーオタだけ相手にしててもなかなか食えないかんじだし。
エロバレーは実際よくよく丁寧に作ってあるゲームなのでその制作行程に手抜きや手落ちがあったとは思わないけど、しかし「必ずしもやらなくていい」ことに関しては設計時点でスッパリ落としてあるよなーとは思える。コスト管理が厳しいっていう評判の、そのへんがTECMO節ってことなのかもなあと思った。
OPERA7が正式リリースになった、ようだ。日本語版はまだ。
健康診断(再)。血を抜かれると一日力が抜けたままになってしまう。
採血されてるときやっぱし血って赤いよなー鉄だなーとか実際にそのものを見ることによって安心を感じるのと同時にとてもめんどくさいような気分になった。なんていうのかこの独特のめんどくささみたいなものは、説明がむずかしいっていうのか逆に簡単すぎて言葉にしづらいのかもしれないな。
なんだか最近やけに靴の通気性がいいなアとおもってたら靴底に穴が開いていた。ていうか雨の中を歩き回ったあと靴下がジュブジュブになった。あたらしいのかわんと。なるべくボロいやつ。
子供はありがたくある。
人間がちいさく生まれてやがてでかくなっていく一匹の動物だっていうことをおれはたまに忘れるが、子供を見ると改めてそのことを思い出す。なにもかもちいさい。ちいさいままであるわけがなく、連中もいずれでかくなる。おれもそうなった。肉体だけで生きて死ねるほど単純な世の中ではないけどおれに自我があるとすればそのうえにこそある。おれは徐々に酸化して死ぬ。
おれもあすこからここへきてどこかあさっての方向に向かっているのだっていうことが子供を見ればわかる。いずれにせよ常に移動はしている。時間を前に誰も立ち止まることはできない。それがありがたい。最近のおれにとっての成仏っていうのはそういうことなのかもしれないなあと思っている。いずれ跡形もなくなる。もしくは逐一解釈するにはあたらないノイズみたいなものの一種になるんだろうか?
おれがおれであってほしいと願っているのは疑いなくおれだ。死体に自我がないのは、それを支えることができなくなるからなのかもしれないが、もう要らなくなるからでもあるんじゃないかなあと思う。だからおれは便利な日記帳を使う必要がいまのところない。逆にいうと便利な日記帳を使いたいと思えないうちはおれは弱いっていうことだ。
ふと映画「SPHERE」のサイトのイントロGIFアニメーションを見て、ちょっとどきっとした。同じリズムで畳み掛けるってのは王道だなあ。いやむしろこれは古典なのか。
あとふたつでじゅうぶんですよ研究所っていうページがすごくよかった。あーこれよ、こういうコンテンツがサクっと存在していることこそがおれにインターネットっていうものを感じさせてくれる。
暗示説ってなんとなく考えてたことあったけどゴレンジャーのパクリ説はまったく気づかなかった。ゴレンジャーは何度も見たはずなんだけどなあ、おれの目は節穴だな。
最近はわりと中級まで安定してクリアできるようになっており、上級の最後の切り返し手前あたりが箱根(←越えるのがむずかしい難関の比喩)。うおーこの難関を越えて100まで辿りついて最新号を待ちわびる田舎の幼女の手に「レディーズマガジン」を届けるのだーとかアクロバティックに妄想しながら粛々と玉を転がす。
やっぱりこれはよくできてる。
1日2〜3回くらいしか触らないんだけどほとんど毎日やってる。クリアとかそういうのは目標じゃない。というか目標なんていうあほらしいものを意識する必要がないっていうことが触ってるとだんだんわかってくる。ただ触って傾けて回して玉を転がし運ぶ。たまたまうまくいけばいいし、失敗しても構わない。たまには真剣にやる。真剣にやったからといって必ずうまくいくわけじゃない。そうかと思えば奇跡のようになめらかに玉を運べたりすることもある。そしていつのまにかコントロールがうまくなっている。自機が丸く、重力があり、コースがある、それだけのルール。新しい発見は特にない。それは目標と同じで導入時にあるだけでよく、以降は必要ない。めんどくさくなったらやめる。また明日やる。
こういった感覚はゲームにとってとても大事なことのひとつだと思う。
おれが住んでいる部屋というのはもともとが書庫で、つまりこの部屋の主役はなにをどうやっても本であり、三方見渡せばすべて本棚で、棚は例外なくギッチリ本が詰まっており、窓は一応あるにはあるけどとうの昔に本棚の彼方で、ここで寝てるときに地震でも起きればおれはドアを開けることもできずに本の海の中で溺死する運命を辿るよりほかなく、そうした危機をなるべく未然に回避すべくこれまでどうにかこうにか詰め込みつつやってきたんだけど、この夜半に搬入された大量の漫画によって遂に室内の本の体積が本棚の収納限界を超えてしまったのだった。
あっちを出してこっちを片付け、飛び飛びになっていたシリーズものをまとめたり収まらなくなったので分割したり、同じ作者の別シリーズの続きを本棚の裏側あたりで発見したりと散々いじりまわしたけどどうにもならん。解法のないフリーセルをやっている気分だ。
結局小説類を別の部屋に退避させて本棚を新設することになった。
風呂釜に釜一杯以上の水を溜めておくことはできないんだからしょうがないんだけど、しかし、なんとはなしに無念だ。
埃まみれになってしまったので服脱いで洗濯して風呂入って今時計見たらもう5時半。あーしまった今日もう寝れないな。諸々に自業自得。
年に何度かやってしまうんだけど、鍵のかかったドアをかかってないつもりで引っ張ったとき、自分が普段どれくらいの力でものを扱っているのかがわかっておもしろい。さっき引っ張ったとき「多分これくらいの力だろう」となんとなく予想していたとおりの力が体にかかって、とても充実した気分になった。
むー、失敗によって思ったとおりの結果が出るっていうことも、あるよな。
「仮面ライダーSPIRITS」を傑作だというひとが居て、「うしおととら」を傑作だというひとも居るのだが、おれは(べつにつまらないとは思ってないしそれぞれちゃんとおもしろいとは思うがしかし)それらを傑作だと思っておらず、ていうかそんな読者同士のあーだこうだは作者とか編集者とか業者とかにとってはどうでもいいしどうにでもしてくれっていう世界のことだろうからいはゆる何をもって漫画の傑作というかみたいな話は誰がそれに関連するなにについてどういうふうにでも勝手に言っていいもんだろうと思っているのでこうやって気楽に日記を書いていられるわけだが、なんというか、まあ、「仮面ライダーSPIRITSを傑作だというひと」と「うしおととらを傑作だというひと」は、おれから遠くそれぞれがわりあい近い位置に居るひとたちなんじゃないかという認識がある。
同じような考え方というわけではないだろう。でもたぶんお互いけっこう仲良くやれるひとたちなんじゃないかなと。どっちにせよおれとは折が合わないわけなので、じつにまったくよけいなお世話だな。ぬう。
あと、そういえば、いかなるソースがあるでもなく勝手におれがそうに違いないと思い込んでいるだけの話なんだけど、おれはあさりよしとお「ワッハマン」の最終話に至るエピソードの取りまとめかたは、あさり氏のかつてのアシスタントであった藤田和日郎氏がうしおととらで描いたエンディングへ至る冗長な過程に対する「師匠としての回答」なのではないかなと思っている。
少年誌と青年誌、小学館と講談社、週刊誌と月刊誌といった全然違った土俵ではあれ、それ以上に「いかにしてひろげた風呂敷を畳んで作品にまとめあげていくか」みたいなことを思ううえで、「うしおととら」と「ワッハマン」はかなりの部分で対をなし、また相似を見ることができるような気がするのだ。
要するにおれは当時「ワッハマン」におけるあさりよしとお氏のまとめかたを(結果的に)とてもうまいと感じたっていうことなんだけど、単にそれだけメモっときゃいいのになぜかそこへもってきて「うしおととら」と対比しようとしてしまうのは、これはおれのオタくさい業であってほかの何物でもない。
つうか実際ただ普通に漫画読んでるぶんにこの2作は比べるようなものではないと思うんだよな。あらゆるものがまったく違う。しかしなぜかそういうふうに考えてしまったおれというのもこれまた消しようが(消す必要が)なく。
月はこんなかんじになった。
手持ちで1600x1200で撮ったのを原寸のまま320x240に切り抜いて容量優先に再圧縮かけた状態。
朝夕だったらおれでも捕捉できそうなかんじ。
取り急ぎメモ。
FZ1かってきた。光学ズーム12倍だー。
撮るものもとりあえずまずは池袋から東京タワーを望遠してみる。
マニュアル読んでないから使い方とかあんましわからんけどとりあえずきさまの光学12倍の実力をみせれー。
おー、見えるみえる。
見ようとおもったら池袋からでも東京タワーってみえるんだな。
さっそく今夜TATEと夜間撮影散歩会をやる予定。
夜間撮影を考えるとちゃんと固定用の三脚を用意したほうがよさそうなかんじ。
こうなったら光学12倍のカメラを買うほかない。
「魔法遣いに大切なこと」の対義語はなにかというはなしになったが結局「おばあちゃんの知恵袋」だろうというところに落ち着いた。
あの主人公はおばあちゃんっ子ではなかったのに違いない。でなければ、彼女のおばあちゃんは彼女を溺愛するあまり「間違わないための知恵」を教授するのを怠ったのだ。そんなことはないおばあちゃんはやるべきことをやった、単に彼女が生来他人の話をまともに聞くことのできない女だったかったからあのようなことになってしまっているのだ、とするならしかし東京で彼女は変わることができるだろうから(でないとお話にならないだろうから)、彼女は「田舎でこそ、まったく他人のはなしを聞くことのできない女だった」ということになるわけか?などとオタ議論が弾んだ。
ちょっと言うのはやめといたんだけど、設定的に「伝説の魔法使いの娘である彼女は遺伝によりものすごい魔法力を生まれながら持っているが、その代償として若干脳の構造が圧迫されており、たとえば他人の言ったことをまともに(微細なニュアンスを含めて)理解する能力などに欠損が生じてしまっている」なんていう場合があるような気がする…んだけどいくらなんでもそれはないよな、雑誌で連載しててTV放映もやってるタイトルなんだから主人公が(普段はあまりそう見えないけど実は)あたまに障害のあるひとだったなんていうオチではなかろう、エロゲーならともかく(←実際キワモノ寄りになってしまうが、エロゲーだとそういうタイトルも既にあるらしい)。
関係ないけどさっき入力してて「溺愛」と「出来合い」が同じ読みであたことに気づいて、ちょっと感心した。
PS2「FFX-2」の予約がそろそろコンビニではじまったりしているみたいだ。
それはそれとして。
大人数が寄り集まって作れるのは構造であって物語ではないのかなという大規模ゲーム制作に対する失望感をFFにも当てはめてみるのは、これはおれの失望感をそれと関係ない他人になすっていることになるわけだからみっともない。ないのだがやっぱしスクウェアはたとえば100人の仕事に対して勝る1人の欲望っていうような図式が成立する余地のないゲーム制作体制なんだろうなとは思う、またはそういう仕組みはあるけどそれを活用してみせるだけの変態企画者が育たない、あるいはたまたま入って来ない環境なのか。
そうなっていくだろそりゃ、という理屈もあるだろうし、本当にそうなんだったらそれもまた理解できる。背負い込んだからには会社は失敗するわけにはいかないだろう。ということは、しかし、やっぱし中からぶっ壊す人間が出てこないことにはスクウェアがおれにとっておもしろい状況へシフトすることはないんだろうな。
エニックスと合併したってそれはたぶん変わらないと思う。どっちもまじめそうな顔してゲーム産業やってそうな会社に思われてしかたない。消費者にバカッツラまるだしで楽しんでもらうために彼らは当然まじめな顔をせざるをえないが、それでもやっぱり極小微量のバカッツラスパイスがゲームに最後のコクを与えるような気がしてならない。
おれが溺れるようなゲームはたぶん、あのあたりからは出ない。
そもそもを言い出せば彼らにはべつにおれをハメ殺す必要などなく、おれの欲求もせいぜい「なるべく多くおれをハメ殺してくれる連中が居たらうれしいんだけど、(大雑把に)あのへんの会社はどうかな」という程度のもので、じつにまったく縁の薄い話ではあるんだけども。
この(すくなくとも現在の日本人的な体質において)大人数では物語を作れないだろうというおれの経験則は、たとえば国とかなんとかそういうものに当てて考えてみたときには安心装置として作用する。まじめに構造(だけ)を組んでおいてほしいひとたちがある日突然物語を作り出すようになったらたまったもんじゃないので、「ひとが集まれば彼らが作るものは構造以外のものにならなくなる」と念じている間は安心してボンクラをやっていられるのだ。
強いていうなら構造を作っている「彼ら自身」は、時間のものとして物語的に切り分けられる可能性を持っているとは思う。たとえは悪いけどNHK「プロジェクトX」みたいなのとか。
よくわからんのだけどつまり回線をちんちんに例えると「おれたちのちんちんはまだまだ太くなるぜ!」というような話なのかな。しかし光速は30万km/secであってアインシュタイン氏の説を信じるなら光速より速いものはないのだから、どれだけちんちんが太くなろうとも結局ピストン運動が300,000km/secを超えることはないのだろう。
ということはつまりちんちんが太くなるにつれてRTSやMMORPGはどんどん進化していくんだろうけど、1秒間30万kmを60で割ると1/60秒間5,000kmなので単純な数字でいえば回線(すべて光通信で)距離5,000km以内の人間としかバーチャファイター2を快適に遊ぶことはできないのであり(バーチャ1なら10,000km圏内)、地球をぐるりと一周して世界のみんなとFPSでなごやかにぶち殺し合うというような未来はちんちんの太さ云々で引っ張ってこれるわけじゃないんだろうな。このはなしはkarafutowork時代の観音丸氏が言ってたのだから間違いないのだ。
ということでここはひとつFPSの未来のためにも超光速通信で世界(つーか宇宙とかまで)がつながるような未来のドアをどっかのすげえ科学者のひとにノックしていただきたいと思った。「月面人UZEEEEEEEEEE!」とかいいながら物陰にコソコソ隠れて手榴弾投げたりしてみたい。
そういえば鍵のなくなった自転車の盗難防止チェーンは火曜日あたりにつつがなく鍵の110番のおねえさんの手によりぶった斬られたのだった。なんで自転車屋さんじゃなくて鍵屋さんに行ったのかというと、自転車屋さん探してうろついてたら鍵屋さんをみつけたから。よっぽどのことでもない限りなるべくいきあたりばったりに生きることにしている。
開錠するのと切るのとどっちがいいですかってんで安いほうっていったら細い工具でプチプチ30分ばかりかけていっしょうけんめい切っていた。けっこう効果あったんかねこのチェーン。工賃500円。
プレイメモ。
買ったし遊んでるのに、実はまだ正式タイトルを知らないっつーか、ケースを見ても全然タイトルがあたまに入ってきてくれない。おれの脳が「その情報は咀嚼する必要がない」という信号を出しているのだろうか。このまま一生正式タイトルを言えないままでいてもいいような気もする。
「3D格ゲー新規参入だし、システム以外でも何かひとつこう、ぱっと見ただけでわかるインパクトがほしいよな」「んー、んじゃ巨乳ギャルが出てきてそいつの乳がポリゴンでバインバイン縦揺れするってのは?」「それいただき」→ 格闘 + ( 巨乳 x 縦揺れ ) = Dead or Alive 誕生。
「んー、DOAシリーズもいろんなハードでやったし、ユーザ認知度も結構いいかんじで掴めてきたと思うんだよね。でもDOA3出してみて思ったけど、なんか最近せっかく捕まえたユーザ層といまいち噛み合えてない気がするんだよねー」「んー、AC版はともかく、CS版のDOA買ってるひとの大部分は格ゲーあんまうまくないんじゃないすか」「それか」→ DOA - 格闘 + ( ギャルモーション + カメラ + プチプチ ) = エロバレー 誕生。
とか思っちゃうよな実際のところ。ただの格闘ゲームとしてはインパクトが弱いからDOAにギャルを盛り込み、格闘がDOAのネックになるなら格闘ゲームであることを捨てる。単に番外編としてではなく、もしエロバレーにおいてほんとにそれに近い判断があってそうしたのなら、ハードな経営やってるということだろうなあ。
高い技術力を持っているチームを抱えているのに経営が甘くないというのが、TECMOの稀な印象を裏付けているよな。普通技術が高ければそこに会社の比重は置かれがちになるし、逆に経営がガンガン勝負を打っていくっていうのは自社に技術力を蓄えられないっていう弱点の反動だったりとかするような気がするんだけど。
なんというか、へんな会社のへんなゲームだなあと思った。
エロバレーを買ってきたのでこっそりひっそり稼動していた「格闘超人」もついにお役御免です。
格闘超人は、おれがPS「Tobal 2」の頃のDreamFactoryファンだから納税感覚で買ったというだけで、ひとにおすすめできるかんじのゲームではなかった。発表から発売まで情勢を眺めていてあまり期待できるかんじではなかったからそのこと自体残念ではない。強いていうならそのことを残念にも感じられないことが残念だった、しかしそうした残念を期待するにはもう時間が流れすぎているような気がした。
流れてしまえば時間なんてあっという間だものなあ。
まあそんなことはともかくエロバレーを遊ぼう。当分は稼動する予定。
どうせおもしろいとかおもしろくないとかいうようなものではないミニゲーム集を淡々とやるだけの時間つぶしソフトなんだろうけどいいんだよそんなこたビキニカラテだって買ったんだからおれは。
写真付き記事。ちょっとびっくりした。「アビイ・ロード」ってあのあれか。母がレコードを持っていた。
ポール・マッカートニーが指にはさんでる煙草をCGで消したポスターが販売されることになったんだとか。理由は「ファンがまねると良くない」。
むー、むー、うー、…なるほど。
「以前は煙草を指にはさんでいて、今回それを消した」という記録をきちんと残しておいてほしいなと思った。
確かに時代が流れていけば過去の人間が普通にやっていたことが信じられないような蛮行ということになったりするっていうのはよくあることで、そうした行為を濾過して後世に伝えていくっていうのはあながち外れた理屈ではないっていうか、ふつうにあるはなしのひとつだとも思える。似たようなことは経験している。ポスターは歴史そのものではないんだからそれを改変するのは間違ったこととはいえない(=そのポスターに歴史的価値を見出すほどに、おれはビートルズに思い入れを持ってないということになる)。いや違うか、歴史的なものでもあるが、それ以外でもあるから、変更するのはアリだ、というべきか。
現在と、今後をみすえたうえで「ビートルズが歩きたばこしてるポスターがバンバン貼られてるってのはちょっとナシの方向で」って言い出すやつが居てもおかしくはないし、その主張が通ったというのなら、まあそうなるんだろう。
とにかく「ポール・マッカートニーは喫煙者ではありませんでした」とか「地球上に、煙草なるものや、喫煙の慣習などというものは存在しませんでした」ということにならなければそれでいい。べつに「ポールは喫煙者でした」と喧伝して回る必要はないし、ポスターを修正することで変わる印象があるのなら、それはそれだ。誰かがポール・マッカートニーを調べてみようと思ったときに、彼の記録の一部が人為的に消されていたり、隠蔽されていたりしなければそれでいい。
もちろんポール・マッカートニーの記録が自然になくなってしまうものなら、それもそれでいいと思う。
とはいえ、わざわざ日記に書くくらいにはびっくりした。
一応メモしておく。「ポール・マッカートニーは右手人差し指と中指の間に吸いかけの煙草をはさんでいた」。
最近毎日昼過ぎくらいになると、決まって思い出したくなって困るのが「ワケルくんの歌」のメロディだ。
なんとか思い出そうとするんだけどいつもうまくいかず、しょうがないので「ゴジラ対ヘドラ」のあの歌にあわせて脳内演奏している。この2曲は驚くほど自然に融和するよな。「かーえせー」の部分を「わっけーる」にするだけ。
さっきから「ワケルくんの歌」をリピートさせてるんだけど、今度はだんだんこっちがヘドラのあの歌に聴こえてきた。うわー。
「、」or「,」「。」or「.」。その組み合わせをどうするのが正しいのか、というはなし。
主にプログラマのひとなどは、「,」&「.」なら「、」&「。」よりそれぞれ1byteずつ節約できるから、そうしてるんじゃないかなと個人的に納得していたんだけど違うんかな。最初はレポートの書式などで馴らされて、いずれ日常的になんでも正規表現を心がけつつ最適化する習性がコードだけでなくふつうの文章にまで波及してきて…みたいな。
「デザイナー」とか「プログラマー」とかの、あってもなくてもいい末尾の「ー」を省略しがちなのも同様に理解することにしている。
もちろんこれらはおれが自分を納得させるためだけに作った屁理屈みたいなものなので、いかなる保障もない。
例示。
関係ないけどそういえばライターのひととかの場合、英数字も全角(2bytes)文字だよな、PC系とかの専門誌の一部を除いて、ほとんど必ず。あれは雑誌媒体の決め事なんだろうか(ていうか縦書き表記だと英数字も全角にしとかないと表示がまずいからか)。
もっと関係ないけどそういえばエロゲーのシナリオも全角だったよな。あれはウィンドウ文字数制限をきっちりさせてから書かないといけないっていうゲーム仕様上の問題だと思うけど(でないと行送りとかページ送りとかのスクリプトを埋め込む位置がズレる)、逆にスタイリッシュフォントを使用してるエロゲーって何かなかったっけ。
それはそれとしてはてなアンテナは、個人利用でのネットにおいて(すくなくともその利用者には)ディレクトリ型サーチエンジンとして有効な現状があると思う。
Yahoo!のような「映画」「スポーツ」みたいなジャンルによるディレクトリ分類ではなくはてなアンテナ利用者個々人単位での分類。Yahoo!の場合はディレクトリ内部の編集を運営側がやらなければならないが、はてなアンテナの場合その負担はユーザ側で勝手にやってくれる。手間をかけずにいつも新鮮、これは大きなメリットと言っていい。
もちろんアンテナ管理者の趣味で編集されるリストなので「公式」とか「正確」「完全」などといったものにはならないのでどのみちそういうことをやってくれるサーチエンジンは必要になるが、個人利用の範囲でどっかによさげなページはないかね〜とか軽い気持ちで見たことないページを適当に探すぶんに十分なゆらぎ(多様性&信頼性)を計ることのできる指標がはてなアンテナにはあるんじゃないかなと。具体的には自分が見たことのあるわりと好きそうなページが多く登録されているアンテナ上のまったく知らないページが、次の探索候補になりうるというその仕組み。
「はてな」は人力サーチエンジンとしてはじまっていて、これは正直あんまし使う機会がないんじゃないかなっていうか「なにかがあって困ったとき・ひと」向けなサービスなのかなと思っていたけど、02年5月にはてなアンテナサービスを始め、これはべつに困ってなくても毎日使いたいものだから多くひとを集められそうで結構うまいサービスなんじゃないかなと思ったし、そして次ははてなダイアリーだ。
実際んところよくわからないんだがなんとなく、「特定少数ユーザ利用」→「不特定多数ユーザ利用」→「はてなコミュニティ形成」みたいなポップアップが感じられる。はてなダイアリーがどういうふうなものになるのかは現在のところあんまし見ても調べてもいないのでよくわからないけど、これがうまいこといけばかなりおもしろいんじゃないだろうか。
過去にもたとえば「作って運営するのが簡単」というメリットを推し進めたgaiaxコミュニティっていうのがあったけど(あれは正直成功例とは思えないんだけど)、「便利でなじむサービス」として頑張ったらはてなは結構いいとこ狙える位置に、現在来てるんじゃないかなとか思ってみた。
鍵になるとすれば「ユーザ同士にどう互助連帯させるか」みたいな仕組みを自然に組み込むことができるかどうかだろうし、具体的には掲示板的な機能をもったなにかだろう。ダイアリー同士でも「情報疎通」は可能にするんじゃないかと予想してるんだけど(たとえば登録単語の自動リンクなんてのもその一例だろうし)、そのうえ更に管理者同士の「意思疎通」までもやってしまうことができるんだろうか、または、そんな仕組みがあらかじめ必要だろうか。
掲示板ならまあ掲示板でやれるんだろうけど、掲示板という形態をとらずにそういったことはできないんだろうか。または「はてな」コミュニティーに掲示板を組み込むとしたら、一体どの要素にぶらさげるかたちでそれを設置するのが自然なんだろうか、あるいは、それも多重連携するかたちで行ったほうがいいんだろうか。
あるいはそこまでやってしまったとしたら、はてなサービスは空洞化してしまうんだろうか、つまり、そこまではてなを拡大解釈していった先にある妄想は、逆にネット生活をつまらなくしてしまうんだろうか。
そして既に「Google」と「はてなアンテナ」だけでわりと探検できてしまうネット生活っていう現状は、ないだろうか。具体的にわからないことがあったらGoogle。なんとなーく関係なさそうでありそうな中途半端なあたりの情報を読んでみたいかなあと思ったらはてなアンテナ。以上終了っていう、現在。おれはわりと、そうなっても困らないような気がして、それが多少不安だ。
しばらく使ってみて、やはり「はてなアンテナ」を公開モードで利用する場合、なるべく登録ページ数を増やさないよう心がけて管理したほうがいいだろうと思った。
ガンガン登録して登録サイトがほかのアンテナと重複している比率が高くなればなるほど自分でアンテナを管理する必然は薄まっていくのだし、その先まで行くとそうしたアンテナをわざわざ自分で管理する理由は「自分でそれをやることによって楽しみたいから」くらいなものになるだろう。
わざわざ自分で管理できるものが用意されている以上「もっとも効果的にそのサービスを享受できるのは自分自身」という状態を維持するのが自然と思える。結果自分のアンテナの登録リストの内容(サイト同士の組み合わせ)はそれなりにバラけていくことになるんじゃないだろうか(非常に抽象的なたとえになるが、個人それぞれが持っているデコボコな内容というものは、その角の高さや角度などはとりたててユニークなものにはならないが、その組み合わせによってできあがる形状は独特なものになりえる、たとえば「歴史小説+お菓子の作り方+自転車+ハイデルベルク人」とか)。自分がなるべく見ておきたいという情報、それ以外のノイズをなるべく省いて洗練していったほうがいい。でなければ誰のためにアンテナを管理しているのか、その理由が不鮮明になる。
このへんの考え方は自分のアンテナをプライベートモードに設定するか公開モードにするかをどの段階で判断するかによると思う。なんつーか、最初に「わざわざ隠すほどのもんでもない」と思うか「わざわざ公開するほどのもんでもない」と思うか、いずれかの性格上の問題っていうか。
またその特性上はてなアンテナには、
以上のようなサイトは登録する必要がない。
前者は更新されていようがいまいが毎日アクセスしてるページなのだからべつにアンテナ立てる必要はないし、後者はどのみち見る気になるまでアクセスしないんだから逐一更新情報などわかってもしょうがない。
はてなアンテナはweb巡回においてリンク集やブックマークが負担していた役割のうち「まんなかあたりのサイト」へのアクセスにおけるユーザ負荷を低減するためのもので、両端あたりまでアンテナにもっていっても使い心地はよくならないだろうと思う。その意味でたぶん「恋人アンテナ」でも「他人アンテナ」でもなく「友人知人アンテナ」っつーかんじになるじゃないのかなあ。
以上のように考えると、はてなアンテナに登録されているサイトはそのアンテナ管理人にとって「あったらうれしいけど、リストにあるどれかひとつなくなった程度では困らないサイト」なのかなと捉えることもできる。少なくともはてなアンテナが示している方向性を展張していけば「サイトが更新されたらアクセスして確認してみてね」であり「そのサイトが更新されるまではアクセスしなくて構いませんよ」となるからだ。
もちろん、実情はそのようではないとも考えられる。はてなアンテナを単純にブックマークやリンク集がわりに使っているユーザも多いだろうと推測できるから、そういうひとのリスト作成思想は上で書いたようなものではないだろうし、そうして作成されたリストから管理者のはてなアンテナに特化した管理思想みたいなものを汲み取ることは難しいだろう。
しかしもしそういうことに無自覚なユーザが居たとすれば、そのひとのweb巡回は恐らく無自覚なままはてなアンテナが持っている仕組みに影響されていくだろう。
脱線。
むー、なんつんだろ。たぶん、こういったほとんどすべての世の中の形式によって生まれるものと、なくなっていくものは、あるよな。携帯電話の普及によって誰も友達の電話番号を覚えなくなったように。そんなものはアドレス登録して外部メモリで管理すればいいのであって脳みそに記憶する必要はなくなった。魔法の数字を唱えれば空間を飛び越え身近な誰かと声でつながることができるなんていう時代は終わり、そんなものいちいち詠唱せずに水晶にプレキャストしといて一発発動ですよっていう現在だ。たいして違っちゃいないとはいえ、やっぱりなにかは変わっている。
いまじゃ携帯電話なくしたら彼女に電話もできやしない。電話をかけるためには10円あればよかったはずで、それはいまでもやろうと思えばできるはずなんだけど、実際やれと言われても公衆電話の前で携帯電話取り出すありさまだ。そしてもちろん、それでいい。いまはあのころとは違うから、あのころ想像しなかったあまりに多くのことができる、あのころのことができる必要など、ない。
なくすものと得るものは、ほとんどと言っていいほどその筋合いを違えたものになる。
祖母が死んで3日経ったのだが悲しくならない。
やっぱ悲しみや涙は距離にも影響されるのかな。吸血鬼は流れる水を越えられないと言ったが、人間の感情も海を越えたらかなり薄まってしまうものなんじゃないかなと思う。そういう話ではなく単におれが比較的冷たい人間だからなのかな。これが祖母の死そのものと直面することを避ける無意識的な思考狭窄だったらそれはそれで、うれしい。そうでなければやっぱしどっかひととして問題があるような気がする。
とはいえ血縁が死んだ影響が目にわかる程度に表面化するようでもそれはそれでおかしいと思う。おれは自分の体をそこまでオカルティックなものだとは思っていない、死は死でしかない。だからその実感を持つことのできない現在のおれの状態は正しくもあると、考えている。
また副次的な問題として、週明けからおれの仕事がもたついているのは今週頭に祖母の訃報を聞いたからかもしれないという疑いもあるんだけど、この時期の作業負荷とそれに伴う遅れは以前から予測されていたものだったし、逆に祖母の死の影響をこの程度の遅れで済ませてしまっはしょうもないとか考えているおれも居る。まあこれはおれと祖母間の問題ではない、おれの内部的な、恥とか世間体の問題の延長に祖母が居るというだけのはなしだ。
戦中戦後を生き抜いて、端数が嫌いで直線が好きなひとだった。落ち込むなら落ち込む、影響なしなら影響なしでどちらかひとつにはっきり決めないと祖母の死に対して適当でない。だから影響がないほうにしよう。
自転車の盗難防止チェーンの鍵をなくして4日目。
新しいチェーンを買ってきて、これで通常どおりの状態に復帰するためには開錠不能となったままおれの自転車に巻きついてるチェーンをぶったぎればOKという段階まではきたんだけど、さてどうやったものか。ヤスリ…とかじゃ埒があかないよな。以前駅前放置自転車を撤去してるじいさんがうすらでかいニッパーの親分みたいなもので盗難防止チェーンをブチブチ切りまくってたのを見たことあるからあれを使わせてもらえばいいんだ。しかしあれはどこ行ったら貸してもらえるのか。
わからないことは警察に聞いてみようと巡回中のおまわりさんを呼び止めて「これこれしかじかなんですがあのあれってどこ行ったら貸してもらえます?」「いやー交番には置いてないね。自転車屋に行ってみたら?」とのこと。
あーそうか、自転車屋だよ。よくよく考えればそんな便利なお店がこの国にはあったのだな。
久々に「アンドロイド・アナ MAICO 2010」のDVDを見る。地味に作りこまれた密室ドラマで、全般的に低予算くささが漂うけど、それをいい味として使いこなしており、優しくなく、コクがあり、おもしろい。すごくいいわけじゃないんだけど鑑賞に堪える小品っていうかんじの仕上がり。
こういうのが実写ドラマでも放映される世の中だったら、おれもTVを見ることのできる人間になってたかもしれないのになあ、こういうのってアニメでたまに見ることができるくらいで、実写のそれではほとんど皆無といっていいほどにないよな。
なぜ日本の実写ドラマはおもしろいドラマを作るためのシステムを作ることができないんだろう。
そうした中では「踊る大走査線」はすごく頑張っていたよな、あれはなんだったんだろうな。そこにスタッフの才覚と努力のちからがあったことは疑いないが、あの人気を獲得できた制作のノウハウが、システムにフィードバックされることはなかったんだろうか。ていうか最初っからそうでなければ、長くある仕組みや体質って変えられないものなんだろうか。それとも、よくできた制作システムが構築されているのにも関らず、出てくるドラマが相変わらずつまらないだけなんだろうか。
国内ドラマ制作の仕組みの現在は、どんなかんじになってんだろ。
結局のところ「マリア様がみてる」の7巻以降をまだ買っていないわけだがっていうかどうせなら特殊ルール女子高もの(excite特集によると学園規律ファンタジーっていうのか)をひととおりおさらいするようなかたちで読み込んでみたいなと思ったのでどれを読んでおきたいかを簡単にまとめ。
池田理代子「おにいさまへ、、、」はもちろんとして、exciteの特集で紹介されていた美内すずえ「聖アリス帝国」は是非読んでおきたい。乾くるみ「Jの神話」も余力があれば読んでおこうかなと思った。あと美少年っていうか具体的にはギムナジウムものも並読しておくほうがいいような気がするので萩尾望都「トーマの心臓」「11月のギムナジウム」とかあのあたりも適当につまみ読みすることにしよう。
まじめに書き出してたら芋蔓式に出てきてたいへんだな。ものすごくひさしぶりに漫画とか本とかをたくさん読んでた頃の気分を思い出した。あー読んでも読んでも読み足りない本なんてどうせ死ぬほどあるんだからそれが理由で不老不死をほしがるっていうのも悪くない、みたいなかんじの。1日1冊読了したとして寿命が80年だったら大雑把に人間一生で3万冊弱くらいしか読めないんだしな。…3万!たった3万!とか考えてたら1日1冊ペースじゃとてもじゃないけど成仏できない気分になってきた。しかし味わって読むっていうことをするためにはドバドバ読んでばかりではだめだし。
もうひとつ、確か「90年宇津穂島全誌」だったかで柳川房彦氏(別のひとかも)が仮面の学生騎士の元ネタ話か何かで紹介していた、もとやま礼子「燃えよ!孔雀学園」(…だったと思うが記憶曖昧)という漫画を読んでみたい。おれの記憶違いで全然違う作者の別作品だったかも。
このあたりの名前とかタイトルとかを確認してみようとひさしぶりに宇津穂島全誌を資料箱から掘り出してみようと試みたけどみあたらず、かわりにコミックマーケットの資料集とか、こちらは個人資料(Sくん制作)になるが三峰徹氏の投稿イラストのスクラップ集(主に93年〜95年頃のもの)などが出てきて困った。なんでこんなのが残ってんだ。
コミックマーケット資料集にはコミケが取り上げられた記事のスクラップも収録されており、時代順にそれらを読むことができる。写真は82年8月14日のもので、「ヤングたちで熱気ムンムンの晴海会場」なんつって煽り文句も時代を感じさせる。熱気ムンムンだって、おれもなんとか今年中に一回は使ってみたいなこの表現。
あと三峰徹氏投稿イラストスクラップブックをざっと読んでみて、投稿の内容が正しければの話だが、三峰氏は93年夏〜秋頃に千代田区から板橋区に引っ越していたようだということがわかった。
資料っていうものはそれぞれを連関させて現象を浮き彫りにさせるためにこそ有用なのであって、ちょっとしたものが途切れ途切れにあっても全然役には立たないよなと実感。まともに何か成果を出せるよーなとりまとめをやるためには膨大に取り揃えないといけないし(とにかくまず結果を出さねばならないというような職業的研究の場合は多すぎる資料がノイズを生んでしまってそれが不都合を生んでしまう場合もあるから除外するとしても、住宅事情が許すかぎりにおいて、資料が多過ぎて困るなどということはない)、半端に残してあるだけのおれの手持ち資料は量が少なすぎて何の役にも立たない。無駄であり、もったいない。
ちゃんと増やしていくか、すっぱり捨てる(というか誰かに譲る)か、どっちかにして多少なりと世間を最適化していかないとどうしようもないよなあ。
もうひとつ、孔雀学園で検索してたらjこれは面白い!! 学園の設定というスレッドログが引っかかったので読んでみたらちょっとおもしろかった。一応コータローまかりとおるとかマリみてとか妖精作戦とかがそれとなく挙がったけど結局学園設定最強は蓬莱学園できまりみたいな展開。教室間弾道弾(ICBM)とかなつかしい単語が。
Mさんは液晶プロジェクタ買ったので毎日毎晩大画面でエロゲーやったりカードキャプターさくらDVDを鑑賞したりしているわけだけど、どうせプロジェクタっていったらでかいけどボケたりしていまいちだろーと思ってたら全然そんなことはなくすげえ綺麗でびっくりした。1280x720がばっちりくっきりきれいに出とる。発色もいいし画面も明るいっつーかドットがはっきり見えるレベル。室内灯つけてても地上波流し見る程度なら問題なく使える。
あーなんかサターンの頃「パンツァードラグーンZWEI」をプロジェクタで遊んだけど、あの頃とは全然クオリティがちがっとるな。まあ時間も数年違うけどプロジェクタの値段も数倍違うようなので、比べるようなものではないのかもしれないけど。
明るくくっきり出せるというのが液晶プロジェクタの特徴らしく、これが三管式だと多少暗くぼけたかんじになってしまうようだ(べつにそれが悪いってことではなく、そういう特性ということで、どちらがいいかは画質の好みの問題になる)。
このプロジェクタでDVDビデオとか見てるとノイズまで克明に表示されてしまうのがそれはそれで問題とも言える。やっぱ映画見るならいいかんじにぼかしてくれる三管式のがいいらしいっていうか、どのみちおれには縁のなさそうな世界だと、ネットでカタログ眺めてみて思った、まだまだ全然たけーよおい。
全般的に写真の画質が悪いのはカメラがボロいからだということを明記しておく。
で、二次元美少女をなでなでしてみよう実験。
なでなでしようが実験意図だったのだがこの時点で表示している家族計画というゲームがエロゲーだったので、まずはちょっといやらしいかんじにアプローチを試みてみることにした。
ようするにきつねとかカニとか鳩とかみたいな影絵の要領で、三次元空間から二次元空間に己(の影=二次元的に表現された自己)を投射してみようっていうことだ。電影少女とかAIがとまらないとかああっ女神さまっとかうる星やつらとか守って守護月天とかなんとか、あー二次元美少女がある日突然モニタから抜け出して三次元化しねーかなー的な待ちの姿勢はもう古い、こっから先のオタはむしろ積極的に己を二次元化してモニタの向こうまで二次元美少女をとっつかまえにいくのだ、とかいう仮説に基づいた、これはその具体的方法の検証だ。
イメージ!イメージするのだ!とか念じつつ理想的な角度を模索していると、なかなかそれっぽい感触を得ることはできる…かもしれない。インサイダーケンならやるだろう。おれは訓練時間が足りないので、まだ無理。
真打、オタハートキャプターさくら。
作画のエロ度を考慮して今回は劇場版(二作目)で実験した。
大道寺知世をなでなでしてみる。
画面がちとでかすぎるか。しかしまあなかなかの感触(?)。わるくないぞ、なでなで。
「W E L C O M E T O T H E N E X T L E V E L」とかグリーンディスプレイにテキストがダカダカと表示されて、次のステージへのドアがより脳内方向へ開いていく幻想。進むと、戻れなくなる。
関係ないけど大槍葦人氏のエロ絵は「少女のあたま」に対する「それをおさえつける男の手のでかさ」が非常に重要な要素として機能していると思う。エロ絵に必要不可欠の概念はアンバランスで、大槍氏の絵のアンバランスはまずひとつそこに見つけることができるということだ。ほんと関係ないな。
知世とさくらと物体X。
ああっ知世とさくらになにやらヤバそうなものが接近!
なんつってな。リモコンと空き缶の組み合わせでした。影絵っておもしろいですな。
次の段階、二次元美少女を三次元にフィードバックする実験。
無地の抱き枕(全高140cm)を使用した。
抱き枕の中ですごくいやそうな顔をしているさくらと、ド根性ガエルよろしくシャツに封じ込められたケルベロス。
案外それっぽく見えるものだな。はは、このさくらはアニメの世界からいきなりあんまりな現実に連れ出されてしまって、そのまま硬直→気絶してしまっているようだ。
おまけ。
地獄!さくらたんの刺青を背中に入れる鬼オタ、てなもんか。
2003オタ光学迷彩。
ふらんす亭、今週だけで3回行ってしまった。
そして3回とも順番待ち登録で名前を聞き間違われた。名前を間違われたからといって席順登録自体に問題は生じないので訂正とかはしない。どうせだから今後も連続名前聞き間違われ記録を伸ばしていければいいと思う。肉は相変わらずうまかった。
しかし来週以降は貧乏な夕食にしておこう。金、金。
TATEが光学12倍レンズのデジカメを買っていやがったので見せてもらった。
すごいな、5万円弱で月への視点を(一応)持てる時代か。
先の冬コミの岡昌平氏新作は「APOCALYPSE NOW 3」ではなく「アポなし3」だったようだ。
次の夏コミこそはー、いや春レヴォでー。自分の過去と過去からある現在にとどめを刺せる人間は自分自身をおいてほかにないだろうから、余人が考えることではないんだろうけども、しかし。はやく次へ、新しい宇宙をー。岡氏にはまだその力があるはずだ。
秋葉に行ったら駅前のNEWDAYS前が鳩まみれ。
何事かと思ったらそのあたりだけ水びたし。ジュースでもぶちまけられた跡なのか。
灰色の鳩が舞い上がるときNEWDAYSの看板のライトを全身に浴びて一瞬だけオレンジ色に染まったのがかっこよかった。
なーんか去年末から鳩にひっかかってるおれが居るな。まあ斑鳩が鳩だといえば、一昨年末からひっかかってるんだが。
JR秋葉原駅構内、電気街口方面通路、中2階。
K-BOOKS、とらのあな、まんだらけ。4面ある大看板の3面までが同人ショップ。
宣伝戦争をやっているという事実は、そのジャンルが完全に秋葉原を制したというわけではないということを指し示しているとは思うけど、ともあれ同人ショップ同士はほかの業種おいてけぼりで覇権争いをやってるかんじだなあ。
あれ、そういえば去年の夏あたりに鳴り物入りで開店していた(まあ秋葉で鳴り物を入れずに商売してる店なんてよっぽどの老舗とか極狭ジャンル専門店くらいなもんだろうけども)メロンブックスの看板がないな。単におれが見た今日が入れ替え時期だったのか、タイミング逃して広告枠に入れなかっただけなのか、あまり駅前広告の消耗戦に加担するつもりはないということなのか、実はもう既に秋葉原最強の座を獲ってしまったので広告の3社が決死の2位争いをやっているだけなのか、はたまた秋葉原での勝ちが見込めないと判断して一歩引いた堅実経営をやっているのか、それとも別のなにかか。
あー情報ないとなにごともわからんっつーか妄想のしようもないな。
気を取り直して池袋、またふらんす亭。肉食うぜ肉。
で、食って満足して店を出たところにある警報ランプが割れてることに気づいた。
廃墟とか学校でもないのに割れてるランプっつーのも珍しいね。
あと、あのくらやみでボウっと光る赤いランプの電球は、裸だと意外にまぶしい。
「ダメなやつはなにをやってもダメ」は真とはいえないが現実的には偽であるとは言い切れず、まあなんというのか、怒った相手からまじめに問い詰められた場合などを除いて普段世間でわりあい通用しがちな考えかたのひとつだ。
あらゆる角度から検証してすべてにおいてダメなどという人間が存在しえるはずもないが(最悪でも「ダメである」こと自体を評価する方法の類を探すことはできるんだし)、しかしその「あらゆる角度」というのが曲者で、現実はそんなに幅や奥行きがあるようなものじゃないのでダメなやつに対する視点は結果として大してかわり映えしないような角度調整の余裕しかないのが実状でもあるわけだ。
というような考えを、おれはオタの周辺に対しても適用可能だと考えている。
オタはなにをやってもオタ。真ではないが、偽でもなかろう。
ようやっと小島真由美「愛のポルターガイスト」を買ったよーなんか今回エロ度が増してるかんじだねーとか電話してたら「小島真由美聴いてるなんてまたオサレサブカルっぽいすな」とか言われたので君はまたよくわからん偏見をもっとるねとか返しつつふと上記のようなことを考えた。おれは間違いなくオタだ。オサレサブカルではない。オタ以外の別のものになるつもりがない以上、おれはそれにならない。
この際は小島真由美氏の音楽がどういった層に好まれるかとかそういうのは関係ない。おれはオタで、オタはなにをやってもオタなので、ということはおれはどんな音楽を聴いていようが延々とオタであり続けるはずだ、つまりおれは今回「小島真由美を聴いているオタ」をやっていたわけで、小島真由美の音楽を聴くという行為によって付随していくさまざまなフィルタやイメージはおれを素通りするはずだ、オタだから。
外からの刺激を一次要因としてオタが変質するわけがない。
オタは自分でしか自分を変えない。そして、自分で自分を変えるつもりも、ほとんどない。だからオタはなにをやってもオタが偽ではないと言える。おれはなにをやろうと「○○をやってるオタ」以外にならない。歩いているオタであり、食っているオタであり、排泄しているオタであり、寝ているオタだ。他人に作られた環境に培われたアイデンティティ(おれ=オタ)ではあるがおれはそれを「現在すでにこれはおれのものだ」と信じ込んでいる。おれの永久帰還装置だ。実体として存在する場合もあり、存在しない場合もあるが、この確信ある限りおれはどこへいってなにをやっても必ずオタである自分を忘れることがない。
1
…というようなグロテスクな自己愛を持っているから、おれにはまだいまどきのわかいひとのセカイ系の文脈を読み解くことはできるはずだ、たとえ共感を得ることはなくても。
2
…というようなことを考えるということは、おれの無意識がオタを強く意識していないといずれそれを失うぞとおれの意識に警告しているということなのかもしれないので、ほっといたら今後おれはオタでなくなっていく危険があるのかもしれないなあとちょっと不安になった。オタ以外のアイデンティティなど特に用意していないのでオタじゃなくなったら困るな、現実を判断する基準を失う。
まあ肉体ある限り認識などは自然に生まれて消えるものだと思うから、どんなことになってもどうにかはなるはずだから心配するようなことではないよな。発狂したって人間の存在はあぶくのように消えたりしない。
ところでレコード屋でもらうポスターの巻き込みっぷりはものすごいものがあるなといつも感心してるんだけど、あれはもしかして自動ポスター巻き機みたいなものがあってn枚/分とかで処理してるんだろうか。もらったことあるポスターはどれをとってもとてもじゃないが人間業とは思えないくらいにギチギチだ。
いや人間業だからこそああまでやれてしまうんだろうか。CDパッケージ工場に居るという、目にもとまらぬ早業でケースにCDを1枚1枚手で入れていくおばちゃんたちのような異能集団が、今日の日本のどこかで。
あまりの寒さで起きてしまったので公園行って煙草吸って落ち葉をひろって眺めていたりしたんだけど、帰る前に手を洗おうと水道の蛇口をひねったらビクともしないのでなんだろと思って見てみると凍ってやんの。ちょっとたのしいので今日は外に出て夜明かししてみるかな。
この1ヶ月ばかり家のブレーカーがガンガン落ちてるのでPCの内臓がいろいろたいへんなことになっていないか心配です。医者、医者。