そんでもっておれなら間違いなくコンボを入れるのだ。
「LEGOアートは素晴らしい。しかしLEGOを取り巻く環境に天才は居ない。LEGOブロックをデザインしたやつだけが天才だ」だな。天才にはあこがれるし、だからこそその分野が好きになるはずなのに、結局そいつらが考えているように考えること自体が、やるつもりのはずなのにできていないっていうか。
そういう状況には圧倒的な差を感じさせられる。
風呂場で叫んだり、階段から転げ落ちたり、ちょっとしたきっかけなんだろうけど。
大抵のおもしろいゲームは、そのおもしろさの研ぎ澄まされかた、シンプルさこそが肝なのであって、「これにこの要素を追加したらもっとおもしろくなるのに」っていうような妄想は実際にやるとほとんど失敗する。
アクション性を伴うようなゲームを作成するとき、コンボシステムの追加が常に正義であると信じ疑うことを知らないような企画者が背負っている業というのは相当に深い。とはいえボンクラな企画者というものは、いつだって「おれの脳内では面白くなってるはずだ」という幻想を、いつまでも信じていたいものなのだからそこんところの兼ね合いが難しい。
幕の内弁当にはなんでも入ってるけど幕の内弁当を作るつもりだからといって何でも入れていいわけじゃない。せっかくのいい要素を、大して活かせもしないようなゲームシステムの中に不用意に放り込んでしまうのはゲームデザインに対する罪悪なんだろうなあ。
だから同人ゲームなどを遊ぶとき、そこにコンボシステムが入っていたら、おれはなんとなく「うんうん」とうなずきながら遊ぶことにしている。うぬ。
「おもしろいゲーム」と「おれのゲーム」の、誠意と欲望の狭間ってやつですかあ。
いまさら1巻のはなしなんだけど。
1巻読んで、それ以降を買ってない。おもしろくなってるという話も聞くので、その後のSPIRITSには以下のはなしは当てはまらないのかもしれない。
仮面ライダーがかっこいいのはいいとしよう。そのへんは素晴らしい。
だけどだめだ。漫画として素晴らしくない。仮面ライダーSPIRITSには「そのライダーがいかにかっこいいか」を説明するためのキャラクタが登場するからだ。これがよくない。非常にまずい。滝和也、おまえだおまえ。
ヒーロー漫画のなにがいいかっていうと「ギャーこいつかっくいー!」と読者がその漫画を読むことで「発見」し、そのあまりのかっこよさっぷりに痺れることだとおれは思っている。ヒーローは不言実行だ、己を語らない、ただ背中、行動だけが彼の正義を証明する。
もちろん苦悩し葛藤し、それを乗り越えて正義を行うという通過儀礼も大抵のスーパーヒーローものにおいてはほとんど不可避のイベントではあるけども、しかしやっぱし男の子のあこがれのなんか無性にかっこいいやつっていうのはタフで不器用なハードボイルドヒーローがその基本形だと思う。
仮面ライダー、そのSPIRITSとあるなら尚更のことだ。余計な装飾はいらん、葛藤とか苦悩とかじゃない、そういうものをこそぎ落とした原初のヒーロー的行為とはなんぞやという、かたまりが見たいのよと。
そこへもってきて「仮面ライダーSPIRITS」だ。
確かにライダーはいい。かれらは説明しないし、言い訳もしない。ただ正義を行い、勝つ。
しかし滝和也だ。ライダーがかっこよく戦ってるところにやつがノコノコやってきてよせばいいのにヒーローの苦悩だの克己だのの裏側をベラベラと喋りやがる。そうまで根掘り葉掘り説明されてしまうと読者であるおれが新しくヒーロー的苦悩やヒーロー的克己を「発見」することができないじゃないか。
安易すぎる、ヒーロー的行動を解釈し、咀嚼し、理解し、吸収するという過程がない。仮面ライダー畑で取れるであろう見事な野菜をどう脳内でヒーロー像としておいしくいただいてやろうかと思って読みはじめてみればその実態は滝和也シェフの独演会状態だ。おまえ、その席はおれのもんだぞと。
言い換えればヒーローものっていうのは「ヒーロー的キャラクタ」と「ヒーロー的行動に対する読者の理解」の両者によって成立するとおれは思っている。無理解にヒーローものを読んだとしたら、そんなものは「なんだこいつ馬鹿じゃねー」で終わるのであってそれは単にヒーロー的行動を台無しにするだけだ。だから読者の「ギャーかっくいー!」は、それがヒーロー漫画であるために、必ずあらねばならないのだ。
そしてその読者の行為にはある種の抵抗が伴う。苦味や渋味、そうしたものだ。無理解に読み流せば馬鹿以外の何者でもない行動をヒーロー的に読み解くという「損得勘定ではない行動」を経ることで、読んでてヒーローの苦悩のひとしずくを共有した気分になれるという、これは読者にとっての必要欠くべからざる大事な儀式とも言えるものだ。
確かにヒーローものを何作か読めば、だいたい連中の考えてることなんぞはたかが知れてるのである程度ヒーロー脳に対する予測や分析は容易になるし、読み漁っているならなおのこと「べつにそんなこと毎回やんなくてもわかってる」ことではある。だけどだからってそこんとこを省略するのは筋合いが違うんだよと。ゲームやるときにコインいっこいれるがはさまれないと失われるSPIRITSはあるんだよと。ヒーローを読み解くという「儀式」は、ヒーローものを読むという行為に対してそれだけの比重があるのだ。と思う。
その過程が滝和也の存在によってキャンセルされる。
おまえは何だ、コンビニの店員じゃねえんだぞ、ひとのめしを勝手にパッケージングしてレンジでチンするんじゃない。どう咀嚼するのか、それはおれの自由であり、そしてどう読み解けるのかがおれにとっての試練であるはずではないのか。
おれの楽しみを奪うな。
おまけにやつは漫画の中に存在しているので「邪魔だからあっち行け」というわけにもいかない。SPIRITSあるところ必ず滝和也がついてまわる。だから「仮面ライダーSPIRITS」は、おれにとって素晴らしくない漫画だ。
滝和也が居るからこそヒーローのハードボイルド度が維持され、また多くの読者の支持を得ているという理屈は、なんとなく受け容れるところではあるんだけど、しかしそういうものはおれをしあわせにはしない。
最近またぞろ井上雄彦「スラムダンク」などを読み返しているんだけども、やっぱこの漫画のコマ割りはいいね。ほどほどにシャープで、そしてスタイリッシュなかんじ。すくなくともその頭角を感じさせる。とても週刊少年ジャンプ連載の漫画とは思えない。いやじゃあどんなんだったらジャンプっぽいのかというと案外ジャンプ漫画のコマ割りのイメージングってものはできないんだけど。時代のせいかもしれない。自分内偏見ってものの根拠のなさはこういうふうにして露見する。再分析再分析。
話もおもしろい。もえる。熱中できるクオリティ。全国の中学と高校の図書館に集英社はいますぐスラムダンク全巻を寄贈したまえとか思う。テニプリとか言ってる場合じゃねえんだよと。言ってる場合ですか。そうかもしれねえな。はふう。
で、スラムダンクを読むと必ず読みたくなるのが高橋ヒロシ「クローズ」。
月刊少年チャンピオン連載。クローズ自体はとっくに連載終了してるけど、同じ舞台設定で違う主人公の漫画を最近連載してるみたい。最近Gさん家でちょっと読んでこちらも読みはまった。
キャラの立ち具合と視点の高さ、リアリティの盛り込みかた、そしてなんといってもコマ割りのセンス。スラムダンクとクローズは、週刊ジャンプと月刊チャンピオン、バスケ試合漫画とヤンキー抗争漫画、読者層とかもたぶん相当違うんだけど、しかし非常に近い空気を持っていると思う。リズムと言っていいのか。
どちらにも捨てがたい魅力がある。
クローズ。少年漫画にあるまじく無駄のないネーム、整頓された情報の質量、絵柄の力感に負けないキレのある大ゴマ。時折天才っぷりを感じさせるページがある、というか高橋ヒロシ氏は多分ほんとに漫画の天才なんだろうと思う。才能だけで描いてる、そんな気がする。努力というものをほとんど感じさせない(というか読んでて「マジでなんも考えずに線引いてるだろ」とか思ってしまうことがある)。ときどきアホみたいなページもあって、そのムラっ気がまたいい具合にはまる。
漫画家としての完成度でいえば間違いなく井上雄彦氏のほうが優れてると思うんだけど、漫画の才能で言ったらおれは高橋ヒロシ氏のが上だと思う。もともと持ってる才能だけで延々と描けてしまう高橋ヒロシ氏と、持ち前のセンスに洗練を加えて行くところまでいっちゃった井上雄彦氏、というかんじの認識。言うなれば海南の神(じん)が井上氏で、高橋氏はいわば湘北の三井(のヤンキー時代)だな。どうなんだ。逆?
こういうふうに書きすすめてきてみれば、なんか高橋ヒロシ氏が全然努力してないようにも読めてしまってあれだな。いやそう見えてしかもすごいんだから、それもまたいいような気がする。とりあえず「WORST」はおもしろいぞと。
amazonで高橋ヒロシ氏を検索。
一応高橋ヒロシ氏もヒットするけど別のたくさんの高橋さんのほうが上に来るというのはいかがなものか。
もう来週明ければ12月ということで西欧あたりではサンタクローススコードロンもスタンバイAOKなかんじの週末であろうか。日本だとクリスマスは12/24-25の2日間なのであっさりしたもんだけども、とりあえず東急ハンズ1Fはクリスマスまみれで困った。
板きれ持ったサンタの置きものがあったので画像に文字をはめこんでみる。
毎年毎年大変やのうと思う反面、このシーズンしか働かなくていいサンタはうらやましい商売でもある。冬場になると現れて春になると消えていくやきいも屋さんみたいなものか。ああ見えてやきいも屋さんは、夏場は夏場で別の仕事してるみたいなんだけど。
おれも昔描いたクリスマス女の絵でも貼っておこう。
元絵から背景(のいちばん明るいところ)をガチャピングリーンに修正した。
さあもうすぐ12月だ、今年もあと30日ちょっと…しか、ないー、あわわ。
β版なのでまだちょっと不具合とかはあるみたい。
のんびり一昨日くらいから使ってんだけどまたいい具合になってる。はよ製品版出してくれと願うばかり。7になったらライセンス買おう。ブラウザに金払うっていう発想はあんまし持ってなかったんだけどもOPERAにだったら金出してもいい(無料版のOPERAだと広告バナーが表示されるようになってるんだけど、ライセンスを買うと消せる)。実際んとこOPERAつかってて広告を邪魔に感じたことないので、ライセンスは要らんかなあとかも思うけど。でもまあ、なんかおもしろいもん作ってくれてありがとうってかんじだから、買おう。
というかPEG-NX70VでもOPERAが使えてほしいんですけどPalmOS5版は出ませんか。そういう作り方はせんのかな。使えたら速攻でAirH"かってきてモバイル野郎と化すんですが。
つうか年末年始あたりをAirH"ありで過ごすかなしで過ごすか、どうしたもんか。
freeとliberty、なるほど自由か。
おれが感じている違和は、freeを消費することでlibertyが消耗するという話であるのかもしれないと一旦理解してみた。いや違う気もするけど。ぬう。ともかくきっかけになった。
freeもlibertyもそれぞれ独自の意味を持っているんだろう、でなければ淘汰されて片方しか残っていないだろうから。どちらもが残っているということは、まだそのどちらにも意味がある(もはや「意味としてしか」残っていない可能性もある)。
いいタイミングで言葉をもらった。こういうこともあるんだな。
やっぱ日本語には日本語なりの思考があるし、そこにひょろっと外国のことばを持ってくるとえらくわかりやすかったり逆にすげえ難解だったりしておもしろい。
このへんでやめとく。
男と女の妄想の性質の差について、男のちんこが外に出てるのに対して女のまんこが中に入ってるのがそもそもの違いだと誰かが書いた文章で読んだことがある。男は自分の性器を第三者的に見ることができ、逆に言えば「自分そのものの一部」と深く認識する能力が弱いのではないかとか、女は自分の性器と自分自身をあまり分けて考えるようにはできていないんじゃないかとか、そういった話だった。
そういえば男の性器には「拙者の愚息」みたいなしょーもない呼び名があったりもするけど、女のそれではそういう俗称をあんま聞かないな。…いや単におれが男だから女の猥談をあんまし聞かないってだけかもしれないか。
しかし、ええと、なんていうんだろ、愚息、息子っていうと、確かに自分と(文字通り)血がつながってるんだけど自分自身とはちょっと違うかんじというか。おなじ自分の部品でも指とか足とかにはそうした他人行儀な呼び名はないし。単に男のそれが「目に見えて自分自身コントロールできてない場合がある」っていう、情けない理由によってそう認識されやすいってだけなのかもしれないけども。
感情移入のやりかたについてそれをもとに考えるなら、
ということになるだろうか。
もし女の性器がやおい妄想に関するハードウェアアクセラレータとして機能しているのなら、それを持たないおれは頑張ってソフトウェアエミュレーションするしかなく、それをもってやおいの境地を知るには相手の処理能力をはるかに凌駕するか、あるいはものすごく時間を費やすしかない。もちろん逆にちんこを持たざる女が男オタの妄想時空を知るためには相応のコストを支払わねばならないだろう(…と思いたいけど、その点でも若干女有利な気もする)。そしてそれは口惜しくてかなしいのだ。女は男と全然違うと同時に、おんなじ人間でもあると、おれは思っているから。
そういうかなしみっていうのはSFっぽいのでそれはそれで好きなんだけど。同じじゃないやつが同時に存在してしまう、それがドラマを生んでいくわけだし。
というか。
このはなしの前提となる「性器の違いが差のはじまり」というのは、なんとなーくもっともらしく聞こえてしまう話なのでさらりと読み流してしまいがちなんだけども、こういうもののたとえを言葉どおりにスルーしてばかりいるといつの間にかとんでもなく危うい判断の温床と化してしまうのでそれはまた考えものだったりするとも思う。
精神の構造は肉体の構造を反映するという考え方をおれはかなり根っこの部分では信じているけど、精神の構造が肉体の構造のようにできているとは思わないからだ。精神の構造を肉体に対する理解と同様のやりかたで理解しようとしてもそれは必ず正確さを欠いた認識になってしまうだろう。
ROMに焼きこまれたソフトウェアはそのROMをもって「これがそのソフトウェアだ」ということができるけど、だからといってそのROMの構造はそのソフトウェアの仕組みを表現してはいない、というかんじか。いやなんか違うな。まあいいか。
このへんなひとは誰ですか。webmasterさんの近影ですか?
健康診断でたくさん血を抜かれたら視界が暗くなって一日力が出ない。
ペン握るのもおっくうで、いかに最近のおれに血が足りていないかがわかった。
もっと肉くわなければ。
職場にほっぽらかしてあったClIEのことを思い出したので数日ぶりに手にとってみると電源押してもウンともスンとも言わず、あー電池切れかと思って充電してみたけどそれでも応答がなく、ギャーこわれた?と思ったけどリセットボタンを押してみたら普通に立ち上がってホっとした。
電池がなくなるとリセット押さなきゃ再起動できん仕組みなのか。
エニックスとスクウェアが合併してエニックススクウェアになるとかなんとかいう話で。なんかスクウェアのプレスリリースのページかどこかにpdfが上がってるらしい。どうなんだー?とかああなんじゃー?とか無責任に噂できるご身分(=一介のゲーオタ)のおれなので色々と妄想したり噂を聞いたりして遊んだ。
親玉同士はどうでもいいとして、エニックス出版とNTT出版はこれまた合併とかになるんかな、あんま関係ないんかな。エレクトロニックアーツスクウェアとか海外の事業はどうなるんだろ、あっちも関係ねえのかな、よくわからんなあ。
国内ゲーム業界的には結構大きな話のような気がせんでもないけども、しかしなんか全般的にどうでもいいような気がしてきた。
好きなゲーム作者のひとがそのへんの会社に吸われていったりとかしたらそんとき考えることにしよう。
株式会社スクウェア・エニックスだった。ファミ通.comの記事。
ほぼ対等の合併、なのか?
いやいや待ておれ。
直後だから実感ねえかもしれんが、大企業の合併劇は後からジワジワ効いてくるものだ。「えーあれってあの会社だったの?んじゃあれもう…」とかなんとか。目に付きやすい項目がどうでもいいからといって、目に付きにくい重要なことを見逃していてはしょうもない。
注意を払わなければ。
あ、そういえば有限会社草薙はどうなるんだろうか。
次のドラクエの背景ワークやったりするんか。
いやそれはべつにどうでもいいか。
自由なゲームがおもしろかったためしはないのだから、自由を求めてゲームを遊ぶのは手段を誤っていると思う。いやそうじゃなくて自由じゃない世界で自由を体現するという行為こそがゲームにおける快楽なのだとすればゲームに自由を求めるのは自然な欲求だとも言えるか。
しかしそれはあくまでも獲得する自由であって、求めれば開かれるといった類の自由ではないはずだ。最高のゲームプレイは、ゲームをクリア(=GAMEOVER)することではなく、ゲームルールを駆使してクリア以外の方法でゲームを逸脱することだとおれは思う。
だからというわけではないけども、ビーマニにおけるDJ ITOHは、あれこそは正しくプレイヤーだったと思う。ネットで流れたあのムービーを見るたびに、おれは彼が駆使する自由のひろさに圧倒される。
すげえアホ。伝説の名にふさわしい。
なんとなく手元にあった神林長平「死して咲く花、実のある夢」を読み始めた。
あーもう神林長平に書かれると妄想が草木一本残らないので困る。
ちがう象限を見渡せるようにならないと。
先日「妹を妊娠させた者だけが持てるという伝説の剣」とかいうダメすぎる剣が登場する3コマ漫画をのせている日記ページを見て、ああこりゃいいページだねと思ってたんだけどそういえばブックマークするのを忘れていたと思い出して検索して探すことにした。
で、あの漫画は画像だったからそのまんま検索ワードには引っかからないだろうけども、あのページに「妹を妊娠させた者だけが持てるという伝説の剣」という単語でリンクを張っている個人ニュースページくらいはあるかもしれんとか思ってGoogleで「妹 妊娠 剣」で検索。こういうことやってるところは、あまりひとに見られたくない。
結局その方法で見つけることはできなかったんだけど、代わりに「るろ剣アンソロジー資料室」というページをみつけて、これがおもしろかった。ページの内容としては漫画「るろうに剣心」をもとにしたやおい同人誌のあらすじ紹介で、この要約っぷりがたまらんのでそのうち幾つかを抜粋。
普段人の悪い奴が急に人が良くなるとどう見られるかの見本的な話。剣心と左之助が結婚して双子(親そっくり)が出来たりする。
剣心の妊娠中の話、時尾登場、前に出たオリジナルキャラ混じりの斎×左の続編など。本当はもっと紹介したいのに…。
念のために補足すると、ここで抜粋した文章中のキャラクタは全員男。
剣心というのは主人公で、重ねて書くけど男。だけどそんなこととは関係なく、やおい同人誌の中で彼は妊娠し、出産しているというのだ。るろうに剣心なんて今となっては結構古い漫画なわけで、当時からしてやおい文明はここまでの倒錯をさらりと要約してのけるほどに爛熟をきわめていたかと改めて驚いた。
そういえばサイバーフォーミュラでブリード加賀が奥様やってる漫画とかあったよなとか記憶の奥底で不良パケットと化していた同人記憶を修復しつつ、ひるがえってオタ漫画の現状を考えてみたりした。
オタ向け18禁漫画もここ数年はかなり頑張ってるから「ちんこ生えた女」とかまではわりと普通にいけるようになったと思うけど、まだそれが「父親になる」なんていう次元までは、ちょっと及びあぐねているように見える。
これは性差の問題と言っていいと思う。男オタにとって「父親になる」という現象は、これが相当にシリアスで容易には超えられないからだ。それを含めて娯楽とするためにはあと数段退廃が足りない。
平然と男同士の交配から子供をジェネレートしてみせるやおい女の動物的感性のジャンプ力には及べるものじゃあないな。オタが着実に38万kmを進めるうちに連中はとなりの銀河系まで飛んでいってる。
だからといって38万kmに価値がないとは、おれは思わないけど。
でもまあやっぱり遠くに飛べるのはいつだって女なのだ。
ちょっとそりゃ卑怯だろ、とかいうのが男オタとしてのおれの心境でもある。
最初にいってたページみつけた。
「ネコにテルミン」、ここだった。
主にエロゲーでの話。
遊ぶ予定のゲームを数本以上(壁一面とかまで)スタックすることを「積みゲー」と言うんだけど、最近の積みゲーマーのひとは「新作が少ないから家の積みゲーが減ってきた。そろそろ補充しておかないと」みたいな発想でゲームを買っているらしい。
「積んであるぶんを消化する」という既存の発想を捨て、かれらは次のステージへシフトしていきつつあるのだろう。
買ったゲームをすぐに遊ばず、しばらく間をおいてからじっくり遊びはじめるという、いはゆる「寝かせゲー」というのはこれまた伝統的に存在したプレイ手法だったんだけども、これと積みゲーのプレイ形態は現在既に融合しつつあるのかもしれない。
ワインに狂った人間が自宅にワインセラーを持つ夢を見るように、エロゲに狂った人間は自分の部屋にエロゲセラーを着々と準備しつつある。もともとワインとエロゲは性質が近い、エロゲソムリエだって居るんだし。
「娘が小学校に入学した。俺もいっぱしの父親顔になってきたと思う。このめでたい日にはやはり格別のエロゲーを遊びたい。そう思って今週は95年物のToHeart初回限定版の封を開けた」
みたいな日記がいずれはネットにあがる日も…来ないかなやっぱ。
ヴィンテージものの未開封エロゲとか、なんとなく(すごく狭い世界で)需要があったりしないのか。コピーだの再梱包だのといった問題はあるけども、脳内ロマンを最優先とすべく発達したエロゲ脳をもってすればそうした問題も乗り越えられるんじゃないかなとか。
まあ自分で買った思い出のエロゲを20年後に開封するとかいうよーな場面が持つ、ある種SF的な情動(?)には負けてしまうか。
なんというあさはかさ、胃に重いシーンであることか。
金曜の夜から土曜の朝まで。
「キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!」は、ネット語としてなかなかできがいいと思う。
遠足部活動。
唐突にTATEと、夜半から夜明けまで、池袋-田町を歩いて、電車にのってかえってきた。昨夜の月の影響かもな、なんかこう遠足野郎の血が騒ぐというか。最初は秋葉か東京あたりまでのつもりだったんだけど、結局東京タワーまでいっちゃったよ。
つかれたのでこれから寝る。
今夜の月模様のあまりの風流っぷりに見惚れて、酒買ってきて木陰から覗ったり塀のうえに寝転がったりしながらポカーンと月ばかり見上げていたらいつのまにか2時間。なんという気品。まだ見足りない。ぬう、徹夜しようかな。
買う。
おれはビキニカラテをモーコンとかキラーインスティンクトとかの正当後継と思っとります。バーチャではじまった3D対戦格闘の現在を見渡せばデドアラの、しかもビーチバレーだとというこのご時世、ジョニーケイジやライデンが大活躍していたあの時代のむさくるしい実写撮り込み格ゲーキャラが現在においてビキニギャル共に置き換えられるというその流れはまったく自然です。
購入決定の直接のきっかけになったのはこのムービー。
なんか黒人ねーちゃんが白人ねーちゃんにコンビネーションを決めてダウンさせるムービーなんですが、注目なのはその後。相手がダウンしてる隙に黒人ねーちゃんが、自分のおっぱい揉んでゲージ回復してるんですよ。
ゲージ回復におっぱい揉みモーションを割り当てるよーな開発者が作るゲームが素晴らしくないことがあろうか、いやない。こういうのを待ってたんだよ。だから確信をもっておれは、ビキニカラテを買います。
水着ギャルだけにfatarityは難しいだろうけども、friendshipとかには期待している。
もちろんデドアラビーチバレーも買います。
GC版「斑鳩」のパッケージらしいんだけど、なぜ右下にATARIロゴが入ってますか?
下の注意書きとかは日本語だから、日本版パッケージなんだと思うんだけども…。
1日4時間はFM音源に包まれないと落ち着かない体になってしまっている。
気が付いたら一晩中ループさせたままだったりするのであぶない。ああこのおれの脳髄に染み入る周波数変調。
くそやかましいゲーセンの中で音楽を伝え、喧騒にあって携帯電話の着信を知らせるFM音源は、おどろくべき浸透率で耳の奥まで染みわたる。硬く、鋭く、それでいながらのびやかに、やさしい。魔術的だ。
いやだいたい魔術や呪術なるものは太古から儀式や呪文、つまりは音楽と共にあったものなのだから、おれがFM音源に魔術性を感じるのは自然なのだ。声、音、ひびき、波長、音源、FM音源。精霊の領域でFM音源はおれを支配する。
矩形波倶楽部にFM音源持たせたら鬼に金棒。
名前は矩形波だけどサイン波でこそ無敵を誇った。うなれこの俺のferquency、とどけ貴様にmodulationってかんじか。同音重ねてやわらかくしてしまうぜー。宇宙を貫くKONAMI節、ゼントラーディ軍も泣いて降参。
古代祐三と矩形波倶楽部だけで明けて暮れていったゲー音楽オタ駆け出しのあの頃。
…とかなんとか、しかしそんな昔などかき消すように、いまなおFM音源は強烈におれの脳に現在を灼き付ける。過去でも未来でもなく現在にこそ響きわたりつながってゆく音、空気をふるわせ耳に染み入るメロディがあるのはどこでもなく、常に今、現在だ。
だからFM音源が想い出になることはない。
最近のオタ活動。
のんびりPC版「ギャラクシーエンジェル」をはじめた。
3-1の2機同時撃墜がきつい、とかいってるとなんか別のゲームのようだな。
スコア稼ぐつもりで遊んでみるとここのスコアが異常だということがよくわかった。
ハーベスターで235機撃墜とか、脳がヤコってるんとちがうか(←褒め言葉)。
なんだかんだでおジャ魔女どれみ40話を見ることはできなかった。
あのシリーズはいろいろおもしろそうな絵をお茶の間に提供してくれてたっぽいんだけど、結局おれがそれを享受することはなかったなあ。
またしても祭囃子がおれの前を素通りしていく。
Mくんから返してもらってコメットさんを見返し中。
年内には見終わりたいけど、むずかしいか。
こういうことはテーブルでやんないといかんのだろうけども、ブラウザ依存しちゃうよーなあぶなっかしげなタグとかの使い方(=まともなひとからは眉をひそめられるようなページの作り方)がもともと好きなんよなおれ。ぬう。
CSSが有効だと3x3のパネル状になるんだけど、無効だと組みかけでほったらかしのジグソーパズルみたいなわけがわからん状態になる(幅が合ってれば一応3x3で並ぶ)。
あとMSIE5.5以上とOPERA6.05Jでは意図したとおりに見えるはずだけど、NN7.0だと縦幅だけ詰まってしまう。まあしかしそれはそれで規則的な挙動だし、そもそも標準的な見え方をしないような書き方をすることが大問題なわけで、表示のズレだとかそんなのは枝葉の現象でしかない。
JPEGは細かく刻むとサイズも小さくできるかんじなので、タイル組みすると容量の(多少の)削減にもなる(この例だと1枚で9.39KBのところ9枚に分けたら合計8.21KBになった)。
ただ、やっぱしまともに使うならtableでやんなきゃな。
cellpaddingとcellspacingをそれぞれ0にすればきっちり間も詰められるんだし。
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間を詰めるとこんなかんじ。
まったく正しくはないが正直なところでもある。
おれがこういうあそびが好きなのは、HTMLとかなんとかを正しく覚えず勉強もしなかったせいってのもあるけど、どっちかというと「メガドラのゲームはメガドラでしか遊べない」「サターンのゲームはサターンでしか遊べない」「ドリキャスのゲームはドリキャスでしか遊べない」とか、そういう家庭用ゲーム機の流れの中で受けた影響が大きいような気がする。
「このブラウザを想定して作ったページはこのブラウザからしかまともに見れない」というのは、実のところ弊害としてあまり実感がないのだ。仮にNetscape社のページをNNでしか見れなくても、Microsoft社のページをMSIEでしか見れなくても、おれがそれを不満に感じることはあっても、しかし「だからおかしい」と思うことはないだろう。
WIPEOUTシリーズや海腹川背の新作が遊びたいからPSを買ったし、レイシルやネクロノミコンが面白いからサターンは現役だし、パネポンがあるからSFCも仕舞えない。それに慣れすぎている。というより一歩進んで「このハードはこの機能面で同世代他機種より優れているんだから、ここを限界まで叩いてこそ成立しているこのゲームのおもしろさは素晴らしい」みたいな考え方にまでいっちゃっている。ゲーオタ病だ。
不都合を感じていないんだから「どのゲーム機でも遊べるようなソフトをつくってよ」といった望みを抱く土壌がもともとおれの中で育ってない。というより「どのゲーム機でも遊べるってことはそれぞれの機種が持っているはずの、それぞれの機種の特徴・武器をあまり使いこなさないってことなんだから、そんなことやるくらいならどれかひとつにハードを絞り込んでガリガリ叩いて作ってくれよ」とか考えてしまうわけだ(もちろん、だからといって特性の違うハードで同じゲーム性を成立させるための労苦を軽んじるわけではない。あれにないこの機能はこれで、こっちにはこれがあるけどあれがないからどうにか、とか無茶な帳尻をどうにか合わせてみせるのもこれまたひとつ見事な技だ)。
もちろんサイトとゲームは違うんだからまっとうになにかをやろうと思ったならそういう理屈が通用するとは思わないけど、一コンシューマが自分のリズムでネットを使ってなにかをやってるぶんには、現にどうにかなっているわけだ。
これは、ネットが普及した理由でもあり、ネットが混沌としている理由でもあり、つまりは、あーこんなおれをも含めてインターネットはひろがっているのだなあってことだと思う。
考えてたことのつづきをおぼえてたら、明日書く予定。
ああしかし、また忘れそうな気も。
なんかこう、ひさしぶりにサターン立ち上げてKAZe「Digital Pinball NECRONOMICON」をやってたら、ふとパーツごとの解像度変更による読み込みサイズ調整とかいう小技っぷりに感動したのでちょっと実験。
CSSが有効だと同じ大きさで表示されますが、それぞれ元の大きさは違います。
やっぱ横よりは縦幅削って2倍表示とかのほうが粗いなりの味わいって出せるのかなあ。
ビックカメラ本店に買い物に行ったらボジョレーのでかいポスターが貼ってあった。
エロゲに見えてびっくりした。ジョルジュ(のまんなかあたり)か。
「HELLO THERE」のネオンの「O」と「T」を叩き壊して「HELL HERE」に変えてみせるキャットウーマンとかちょっと思い出したけど、筋合いがちがうよなこの場合。
ハリーポッター映画感想関連。
リンク先の日記によれば、なのだそうだ。やっぱしそうだったか。ぬう。
ハリーポッターは女性作家の手になるお話なわけだから、個々人の感情のながれはともかく細かい伏線のかけ具合とか集団の心理の流れとかに関しては原作でもけっこういい加減なところとかあったりするんかなあとかもちょっと考えてしまったけどもいくらなんでもあんだけ売れてる本でそういう手ぬかりはなかろうと思い直した矢先の補完(というかこれは女性作家だからどうっていう話ではなくて、男性作家の中にそこいらへんのところで潔癖すぎるきらいがあるひとも居るってだけのはなしとも言える)。
ちょっと安心した。
この季節になるとやたらと空腹感ばかり覚え、睡眠時間が長くなる。
冬眠したいなあ。
CSSでネタバレっぽい部分を隠してありますので、この部分→「」が普通に表示されており、かつ映画の内容を知りたくないひとは読まないほうがいいと思います。
みてきた。んー、んー、んーー。おもしろかった、と言えると思う。
3ヶ月に一度くらいは映画館で映画を見てるひとなら、見に行っても失望することはないような気がする。今回はちゃんとハリーが主人公やってるという印象を持つことができたし(見るべき点がハーマイオニー以外にもあったということ)。ただそれはということでもある、ような、気がする。いやのかもしれないな。
つうかこんなことはあんましまじめに考えてもしょうもないか。
今作はずいぶんサスペンス色が強くなっていて、画面や物語中に目で見てわかる大小さまざまの伏線が散りばめられていてなかなか飽きずに楽しめた。この「目で見てわかる」っていうのが良かれ悪しかれ肝心な点で、こういうものの多用っていうのはたぶん映画制作スタッフからの原作の「映像で表現しづらい様々な重要な要素」に対する苦肉でもあり楽しみでもある映像的なアプローチなんだろうなとか。
しかし、たぶん、このシリーズの映画を見るたびに「やっぱ原作を読むのが一番おもしろいハリーポッターのたのしみかたなんだろうな」というような感想を持つことはもうこれはしょうがないこととして約束されているような気がする。
映画を見ることで原作中のキャラクタのビジュアルイメージを固定してかかるのも、またおいしい召し上がり方のひとつなんだろうから、実はまだ原作を1単語も読んでいないおれにとってもハリーポッターを楽しむチャンスは残されているだろう。つうか貸してよTATE。
ハリーポッターは長いおはなしだから、当然ストーリーのうちの重要な展開には普段現れることのない背景設定がここぞとばかり大きく干渉してきたり、なにか肝心なことの原因になったりするんだけども、映画ではこれがうまい具合には説明されない。不足の部分もあるんだろうけど、どっちかというとそれは制作段階であらかじめ放棄してあるんじゃないかと思える。
刹那的視聴者(ハリーポッター映画を2だけ偶然見にきたひとなど)は刹那的なシーン(キャラクタのおもしろさや舞台設定の味わいなど)までは楽しむことはできても物語自体が持っている仕組みや歯車に関してはよくわかんなかったんじゃないだろうか。今作には起こる出来事の「動機」の説明はほとんどなく、これがサスペンスものとしての読み解く楽しさを大きく阻害しているかんじ。
このあたりのわかりにくさには日本語字幕の出来にも原因があるように思えた。字幕は、戸田奈津子氏の仕事、むう。LOTRのときもそうだったけども、やっぱし設定が複雑だったり用語が氾濫してそれぞれが重要だったりするような映画っていうのはその整理の仕方が難しいんだろうな。かなり大胆に説明を省かないと字幕の枠に収まらないし、かといって省きすぎると物語の骨格がわからなくなる。
それでも何回か見れば映画だけでもだいたいわかるようにはなってると思うし、まあ苦しいなかでよく戦ってるほうなんじゃないかなとは思う。
そういった点は数多く見られたんだけど、とりあえず代表的なシーンは。
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…とはいえそれがなくてもサスペンス風味のエンタテインメントとしては成立するということは、国内近年の例を省みてもたとえば週刊少年漫画誌における「金田一少年の事件簿」や「名探偵コナン」などが実証するとおり(状況はどのみちヒーローたる主人公が解決するのだから視聴者はそれぞれのヒントや舞台に関して逐一情報を収集し筋道を解析することなくただ状況の変遷におけるドラマと事件解決のカタルシスのみを享受すればよいという理屈)。
よくわかんなかったひとも「おもしろかった」と言って問題ないし、こういった面であーだこーだ言い出すようなオタなら細かい設定などはそもそも知らなくていいとこまで知り尽くしているわけで、彼らの場合にもこれまた問題ないのだ。
ところで、劇場に向かう途中でMさんから「ハーマイオニーのパンチラカットがある、かもしれない、らしい」という情報を得ていた。
いくらなんでもそりゃガセだろーっていうかスチルにはきわどい写真もあったかもしれないけどフィルムにはのっかってないだろそういうのはとか思ったけど一応昔取った杵柄、動画枚数が多かった頃のアニメとかバーチャ2時代くらいに鍛えたこのおれの眼力をもってすれば秒間24フレームごとき脳内で静止させてくれるわーという勢いで、ハーマイオニーが登場するシーンでは目を皿にして食い入るようにスクリーンを走査。ねえよ!ありゃしねえ!これっぽっちもみつけられなかったよ!ガセだガセ。
それとも最近のおれのだめまってしまった目では発見することができなかっただけなんだろうか。
まあ、なんだ。ハーさまはかわいかったよ。あいかわらず。
あいつぁ男を狂わせるね。将来美人になるかというと、ちょっとまだわからんけど、なにしろやつは、外人だからな。西洋人の少女から女への変貌っぷりは本当に油断ならないので、いかにハーマイオニーといえども警戒を怠っては死ぬ。
3作目で役者交替だとかいう噂をきいたけど、どうすんだろうね。つーか役者の成長速度が子供だからやけに早くて、ハリーなんかもう声変わりしちゃっててやべえよ!とかいう話なんだけど、ハーマイオニーもちっと最近プロポーションが気になるかんじじゃねえのか。むつかしい年頃にさしかかってるぜ。あと校長役のひとが寿命で死んじゃったとか。まじかよ。サンタクロース似合いそうなじいさんだったのに。
いまからでも遅くないから役者全員あらゆるデータをサンプリングしまくって、成長が早すぎた子役のひととか、残念ながら他界してしまった高齢の役者のひととかの役を、徐々にCGキャラクタにシフトしていくっていうのはどうだ。撮影現場から徐々に人間が減っていって、7作目を撮る頃には生身の役者はロン役の彼だけだったりとかしてな。
まあハリーポッター映画がどうなるのかとは関係なく、やがてそんな時代は来るような気もするし、なんかやっぱしいろんな理由で来ないような気もする。わりとどうなっても構わないので、そのへんまじめに考えてみたことないや。
そういえば以前にNさんが注目だと言っていた、20世紀FOXから配給予定だったか既に上映されたのかわからないけど「PHONE BOOTH」っていうニューヨークで付近の公衆電話にかかってきたスナイパーからの電話を取ってしまって色々あって電話ボックスから出られなくなった男とその現場を取り囲んでどんどん大きくなる状況…みたいな映画があったけども、あれは無事に上映できたんだろうか。あのあとNYで実際に無差別狙撃事件とかが起こってしまったようなんだけど。
さっきTrailer関連をまとめたフォルダを整理してて思い出した。
WTCが写っていたために予告編を全編撮り直しになった「スパイダーマン」は日本でも話題に上ったけど、たとえばPVとかだとNYを舞台にしててWTC写ってるビデオなんてすごくたくさんあるわけで、そうなるとMTVのWTC事件当時の対応とかどうだったんだろうかと知りたくなった。あの時期にはもうケーブル見てなかったからわからんのよな。
PET SHOP BOYS「New York City Boy」には当然写ってるし、そういえばLimp Bizkitなんか「Rollin'」でWTCの屋上で踊りまくってるなあとか手持ちのPVを見返してみたりもした。
今夜は「ハリーポッターと秘密の部屋」の先行オールナイトがあるっていうので見に行く予定。ハーさまやハリーちゃんはおとなの階段のぼっとるのかね。ロンはかわってないらしいけど。
というかどっか別々の場所であったらしいプレイミアム試写会の写真の中にロン役のひとが写ってて、彼が別々の場所・時間に撮られたであろうその2枚の写真の中でしかし全く同じ笑顔を浮かべているのを見たりとかして、ああこいつもスネ夫的ポジションの子役なりにきっと相当苦労してんだろうなとかふと思った。
がんばれよ、ロン役のひと。
近頃サンシャイン60の近くの交差点あたりの工事現場脇で見かけるようになった。
「徐行」「工事中」のメッセージの合間に出現する旗振り人。ひとだったのが人形になり、そして電光掲示板だ。工事周辺の現場も進化している。
アニメーションもなめらかなものだ。
だいたいこんなかんじ。
適当に何枚か撮ったものをアニメーションさせてるだけなので実際のぬるぬる感を再現できていないのが残念。
昨日。
久しくやってない早朝散歩だったので、今日は雑司が谷方面の地下道でも通ってみるかとてくてく行ってみるとそこは池袋段ボーラー集団の夜間越冬拠点化していたのだった。
通路の片側が一面段ボール塊の列。
アウトドア派ホームレスの根城がビニールシートのブルーハウスなら、アーバン派ホームレスの寝床であるそれは段ボールのブラウンハウスといったところか。
荷物の量や体格、収容人数、出入り方法、手持ちの段ボールの量と質などによってさまざまな様式があり、ていうかわりときちんと作ってあるものとかめちゃくちゃ適当なやつとかツギハギのやつとか色々あっておもしろい。ひとのありさまはホームレスのそれにあっても当然に多様だ。
…鳩が居る?そう、そこに鳩が居た。一羽。
なんの因果で地下に迷い込んだか、地上より暖かい空気に惹かれたのか、地下の通路に似合わない鳩が段ボーラーの集落の傍をチョコチョコと歩き回っていた。ここから地上へ上る階段までは(鳩の脚では)かなり距離がある、こんな高さで飛べるのかよ、それともおまえは飛ぶ力を失ってしまったのか、あるいは、自分から翼を捨てたのか。
お構いなく鳩はチョコチョコ歩く。
なんとなく火浦功「ニワトリはいつもハダシ」とかを思い出した。
こいつが飛べるのか飛べないのか、強いのか弱いのか、困ってるのか困ってないのか、おれにはわからない。わからないので、わからないままにしておいて去った。
へんな朝だった。
夜、40時間以上放置していたチャリンコを取りに行ってみたらなんと鍵がさしっぱなし。停めたときに抜き忘れていたらしい。よくもまあ盗まれもせず、とか感心してないでもうちょっと注意して生きるようにしなければと思った。